【雑記】不定愁訴と向き合うための神様メンタリティ
目の前に小学生の子どもが2人います。
その小学生は
好きなオモチャを取った、取られたで
たったいま喧嘩しています。
大人のあなたから見て
「しょーもない喧嘩」だと思うでしょう。
それは「大人」という立場のあなたから見て
「しょーもない」と思うだけで、
本人たちにとっては大真面目な聖戦です。
「おもちゃがそこにある」ということよりも
広い世界を知っている大人だからこそ、
これが小さな問題に感じられてしまうわけです。
では数学的な話をしましょう。
平面の2次元世界にいるキャラクターが、「3次元」の世界を知覚することはできるでしょうか?
平面上を動くことしかできない、旧式のゲームのような世界では、「奥行き」や「厚さ」という概念がありません。2Dの彼らに「立体」を説明しようとしても、「厚み」というイメージができないわけですから伝わりませんし、もちろん彼らが3Dの世界に来ることもできません。
では、神様をイメージしてみましょう。
この世の全てを知り、操っている存在である「神」がいるとして、人は神社に参拝して祈祷を行います。
万物万事を、人間とは明らかに別次元で見ている神に比べれば、人間が考えていることなんて狭い視野のちっぽけなものです。
そしてそれを、たった100円やそこらの賽銭で「どうにかしてください」「お助けください」と、たまたま思い立った時に願い出られるわけです。
神様の立場に立ったとき、そんな願いを受け取ったとすればどうでしょうか?
と、思いたくもなるものです。
しかし、そこは神様なので、
その寛大な御心で我々にはこう語るわけです。
花田は別になにか特定の
信教を持つわけではありませんが、
信教というものは
そういう世界観で成り立ちます。
科学が発達した現代でも、
その熱狂的信者を絶やすどころか、
生活の一部として浸透し、
祈祷料を頂戴しては
「サービス」を授ける産業となっています。
神はマジレスをしないのです。
神は我々人間程度がイメージする世界観が
あまりに稚拙なものだと見抜いていて、
人と神が交流するシーンでは正論を返さず、
「そうかそうか」と否定せずに話を聞いて、
しかも
我々人間が理解できる程度の内容で
どうすればいいかを教えてくれるのです。
神が人と交流し
人に何かを授けようとする時は
そんなポジションを取ることになるはずです。
治療家にもこの「神様ポジション」が
必要になる時があります。
たとえば
我々は患者という素人から
痛みについて相談される立場です。
「先生これはなぜ痛いのですか?」
「先生どうしたら良くなりますか?」
「先生この症状は治りますか?」
このように痛みについて
「見通すことができる存在」として
患者は我々と関わろうとしてきます。
また、
昨日始まった左足の痛みについて
過去の内臓疾患が関連していると
考える患者がいたり、
下肢痛に対して
「腰から来ているのかな」
「繋がっているのかな」と語る患者がいたり、
あくまで患者自身が理解できる世界観で
症状の原因について考えを持とうとします。
そんな相談者にとって我々は
「痛みの全てを見通せる存在」と
考えられていることがあります。
はっきりと分かりやすく
端的で簡単な、
理解しやすい答えを教えてもらえると
心のどこかで期待して訪れています。
しかし、
現実問題そうではありません。
花田のnote読者であれば
すでにご理解いただいている通り、
痛みの現れ方やその原因は
非常に複雑怪奇であり、
未来の先読みも
現在の正確な把握も困難なものです。
「なぜ痛みが出ているか?」
という疑問は推測をもとに検討ができても、
「本当にそうだったのか?」
は証明のしようがありません。
膝関節痛に
大腿四頭筋のストレッチを行って
痛みが取れてしまったとしても、
それが大腿四頭筋の
ストレッチだったから良くなったのか。
それとも他の手段でも
実は痛みが減るものだったのか。
手段関係なしに
施術者に対して悩みを聞いてもらう、
その状況自体が痛みを減らすキーだったのか。
同じ体に
同じタイミングで
複数パターンを試して
結果の差を見比べることができない以上、
選択しなかったほうでは
どんな結果になっていたかを
知ることはできないわけです
そういった条件下で
我々は人の痛みを取り扱っているわけですから、
「断言できること」は
ものすごく限られてしまいます。
しかし、
そんなことを患者は知りません。
先ほど述べたような
あらゆるケースを想定した
視座の高い痛みの見方を患者はできません。
したがって、
「先生これはなぜ痛いのですか?」
「先生どうしたら良くなりますか?」
という質問を
“何か答えが存在する前提で”
あなたに問いかけるわけです。
もちろん
同業者がそんな質問をするようであれば
プロとして理解不足といえますが、
素人である患者の質問なら
その認識に開きがあっても致し方ありません。
ただし、
✔︎痛みとは複雑なものだ
✔︎原因は分かりにくい
✔︎骨盤は歪まない
といったようなことを
噛み砕いて伝えることが、
患者にとって良くはたらく可能性
もあれば、
その難解さと不確実さから
かえって拒否反応が発生する可能性
もあります。
マジレスしてはいけない
患者もいるということです。
このような複雑かつ
不確実な概念を説明することが
プラスに働かない状況では、
相手が理解できる範囲の世界観で
話をまとめてあげる必要があります。
それこそ、
「私のこの腰痛は骨盤が歪んでいるからなの」
「この肩こりは猫背が原因だと思うぞ」
という世界観から
患者が離れられない様子であれば、
と、
患者の話を受け止めて
患者の望む形の施術を提供する
「ナラティブ・ベースド・メディスン」
(narrative based medicine)に
重きを置かざるをえなくなります。
我々がどれほど
解剖生理学を勉強して、
そこに正しい解を見出しても、
受け取り手の世界観が
それを許さない場合は、
相手が理解できる範囲の
相手が受け取れるテイストの中で
サービスを構築するほかない場面が発生します。
猫背は肩こりの原因ではないと
散々説明をしたとしても納得せず、
こちらが選択した施術では
あまり改善を感じられず、
仕方なしに猫背矯正らしい施術を行ったら
満足して嘘みたいに良くなる患者がいるように。
症状を改善する最も効率的な方法が
「相手のイメージの中で我々が動くこと」
というケースが少なからずあるわけです。
「相手のイメージの中で我々が動くこと」
つまり
「相手の想像から逸脱しない対応を取ること」は
まさに祈祷に対する神の態度に似ています。
合格祈願に対して
「そんなことする暇あるなら勉強しろ」
「神社に来て点数上がるわけがなかろう」
とは言わずに、
と答えることと、
同じ軸上にあるものではないでしょうか。
患者と接するとき。
患者の訴えを聞いていくとき。
必ずしも
我々が理解している「疼痛観」で
患者と会話ができるとは限りません。
ここに深い溝と
大きな開きがあって埋められないのであれば、
我々と患者は
住んでいる世界が全く違う
という認識を持つ方が良いと思います。
あとは、
あなたに優しさがあるようでしたら、
あなたの方から
患者の世界に行ってあげる
という行動を
取ってあげると良いでしょう。
これを宗教の世界観で言えば、
「神が我々の世界に降りてきた」
というシチュエーションと同一です。
つまり何が言いたいかというと、
支援対象者の理解度が低い
かつさらなる理解が困難な場合の
カウンセラーとしての対応
について、
花田はここまで語ってきたわけです。
そんなわけでGoogleのAIに
「患者の理解度が低いときに
カウンセラーはどう対応するといいか?」
と尋ねたところ
こう返ってきました。(略記)
祈祷に対して
神が我々人間に言葉を授けるとき、
わざわざ伝わりやすい内容を
選んでくれているとすれば、
1.言葉の平易化
5.患者に合わせた説明
を実行してくれているもの
ということになります。
そしてどこにも
とは書いていません。
科学の刃
正論の刃を振りかざして
患者を困惑させることが、
医学的には正しくても、
医学以外的にも正しいとは限らないわけです。
そういうわけで、
このタイトルとこのヘッダー画像で
1本の記事にまとめあげたわけです。
正論をぶつけることでしか
専門性を発揮できない治療家の先輩、
あなたの身の回りにいませんか?
というお話です。
伝わりますでしょうか。
おしまい
■花田は新患の何を見て人を判断しているか?
■治療家のための文化人類学
「ナラティブ・ベースド・メディスン」
■治療家のための文化人類学【フル版】
■花田隼人note メンバーシップ(月額制)
花田隼人(はなだ・はやと)
1996年2月16日生
北海道札幌市出身
柔道整復師
日本体育協会公認スポーツリーダー
'23 医療オリンピック医識王
●Facebookグループ
「北海道若手治療家コミュニティ」代表
●札幌市内整骨院グループ
エリアマネージャー
●花田式・国家試験対策
●柔整国試対策マガジン
●柔整国試対策「記述式問題集」
●治療家のための「薬」の知識武装
●治療家のための文化人類学
●整体における頭痛臨床
ほか
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