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Tweet Archives 経験的自然学(のようなもの)としてのドゥルーズ理論
『問十二 夜空の青を微分せよ 街の明りは無視してもよい』という現代短歌では、数学用語のレトリックがよく効いていて、詠んでいる作者が街を見渡す小高い場所で感じているその空気感も、この「微分」が伝えている感じがあり、この作品を深めていますよね。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) February 19, 2023
同じ「微分」のレトリックでも、その使用を完全に失敗したポストモダン思想のドゥルーズの著作とは異なります。知的に見せようとする「カマシ」に使われるレトリックは、本来は「理」を重視するはずの哲学どころか、芸術や美術にも響かないものなのかなと、思っています。飽くまで個人的意見ですが。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) February 19, 2023
ドゥルーズの数学や物理学用語のレトリックに深い意味があるとする方の審美眼に、個人的には疑いがあります。哲学って何だろうと、改めて思わせてくれます。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) February 19, 2023
— Masahiro Hotta (@hottaqu) February 19, 2023
言うまでもありませんが、ドゥルーズ=哲学ではありませんね。ドゥルーズ理論は経験的レベルの自然学です。出発点を見れば明らかですが。ラカンも。
— 永澤 護/dharmazeroalpha@哲学 (@XlGjfmYpCchopJ6) July 3, 2023
ドゥルーズはよく見ればサーンキヤ学派のプラクリティ=純粋質料の自然学バージョンの系譜でプロティノスも経由しているのでしょうが、それに先立つメタフィジカルレベルは最初から削除またはスルーしてますね。数学に関しては微分可能性の理解すら怪しい話にならないレベルだと思います。
— 永澤 護/dharmazeroalpha@哲学 (@XlGjfmYpCchopJ6) July 4, 2023
ここで「よく見れば」とは「よくよく見れば」の意ではなく「贔屓目に見れば」の意である。なぜならサーンキヤ学派もプロティノスもそれ自体哲学または形而上学で、単なる経験的自然学では毛頭ないからだ。 https://t.co/Trc2LGdrVL
— 永澤 護/dharmazeroalpha@哲学 (@XlGjfmYpCchopJ6) July 4, 2023
上記はドゥルーズやラカンの批判ではないが、彼らによって(実利的商業的な理由によるのは論外だが)哲学やそうした類のイメージが代表されるのだけは勘弁してほしい。それは不毛なお喋りを増殖させるだけで害あって利はない。 https://t.co/LP7eTzuwG7
— 永澤 護/dharmazeroalpha@哲学 (@XlGjfmYpCchopJ6) July 3, 2023
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