人生は「ことばづかい」で決まる。自分の知覚している世界は、言葉によって概念化されているから。自分の見ている世界に不平不満ばかり言う人は、ことばづかいを変えれば良い方向へかわるのだけど、それを素直に受け止められる人ならば、不平不満ばかりは言わないだろう。
自分が世界を創っているのだから、目の前の世界への不満は、自分への不満。自分を変えなければいけないのに、人は別の誰かや何かを変えようと躍起になる。川の源流が澱んでいては下流はさらに澱むのと同じ。自分自身が世界の源流であり、目の前の世界とは下流だからこそ、自分を、変えなければ。
幸せとは、笑顔や満足感を見せることよりも、本当に自分にとって必要だと、自然に感じるられることを、選択し、ただただ淡々と行うこと。本当に必要であればあるほど「必要だ」なんて考えはしないほどに存在が安定し、日々の暮らしをやさしく見つめている。その姿が幸せであり、生き方そのもの。
自分を変えたいとのぞんで啓発本を読む人は多いが、自分を深く見つめるために読んでいる人は少ない。変えたいと思うことは、いまの自分は不完全であることを暗に認めている。対して深く見つめるという思いは、まず自分というものは既に完成していて、それをより詳しく知る、という気持ちなんだ。
結局何が言いたかったかというと、僕らは、のんびり生きているだけでも「奇跡」であって、それは「感動」的なんですよね。自分らしさとか、オンリーワンとかいう言葉は余計に人を締め付けてると思う。朝に太陽を見て、夜に月を見ることだけでもどれだけ感動的なことか。それで十分ひとは幸せだよ。
アファメーションしているのに、何も変わらない!と嘆いているなら気づいてほしい、その「アファメーションしているのに、何も変わらない!」という思考が現実化していることを。こんなに頑張っているのに!という思考は、認めてほしい…つまり認められない、ということを自分に言い聞かせてしまう。
いま、この瞬間という日常は、途方もない偶然の積み重ね・交わりの結果なんだ。それが信じられないくらいうまくシステムが動いている。ボクもみんなもこの宇宙の構成要素なんだけど、宇宙は機械みたいにフリーズしないもん。それすごい感動だと思うんだ。完璧な偶然性による必然の中に自分がいる感動。
僕たちは「科学で解明された物事」は「ある」と言い、スピリチュアルみたいに、これだよって示せないものを「ない」って決めがちなんだけど、それは「科学で解明すべき何か」というお題なんだから、もう「ある」んだよね。「ある・ない」議論は、次の時代への動きを鈍化させてしまうよ。
本当に自分にしかできないことをやっているひとほど、きっと自分のやっていることに確証がもてないで、とても悩んでいると思う。だって自分にしかできないということは、世界でその概念をもっているのが自分だけで、他の人に共有するすべなんてないのだから。
僕は、意見が食い違う時など、それが「事実か思い込みか」を、精査する。事実なら事実としての、思い込みなら思い込みの話の展開があるんだけども、これを「正しいか間違いか」と混同する人がいる。それは事実かと確認するだけで「私が間違いだと言うのか?」と返してくる。そんなことどうでもいい。