子どもの成長と違って、大人の患者のリハビリには「今まで当たり前に出来たことが出来なくなった」という事実があって、それは本人や家族にとって、かなりショックなことで…。そのなかで家族にできることは、いかにご機嫌に、急かさずサポートできるかで、そこには相当な創造性が必要なんだなぁと。
大部屋から個室に変更することになった。毎日不安な気持ちを拭えない患者家族にとっては、どうしても「ぼったくられているのでは?」と疑心暗鬼になってしまう。実際に病院や介護施設ではよくあることだから。ただ、話を聞くとしゃっくりや痰で咽てしまうため、他の入院患者を配慮してとのことだった。
患者にとっては突然自分の身体が自由に動かせなくなって、よく分からないうちに病院に入れられて、ご飯も食べれなくて、話せなくて、そんな状況に気持ちが追いつかないのは当然なのに、どうしてそんな当たり前のことを忘れてしまうんだろう....どうしてそこに寄り添うってことができないんだろう
病棟に足を運ぶ度に「自分は週に1回面会に来れば多い方なのに、同じ病気、同じ病室あの人のところには毎日家族が来て、その人たちの温かな声が漏れ聞こえてくる」と複雑な気持ちになっている患者さんもいるんだろうなぁと。人間は生まれた直後から死ぬ直前まで、こういう状況に向き合い続ける...
重苦しい空気が身体に張り付くような悲しい気持ちになった。そうだよね、わたしだって入院中に1日中しゃっくりや苦しそうに咽てる音なんて聞きたくない。病院は公共の場所。周りの人の反応を感じて本人が傷ついてしまうのは、わたしにとってもっと悲しいので、移動になって良かったのかもしれない。
リハビリ病院にも入院期限が存在するので、患者家族からしてみれば焦りから、「どうしてもっとちゃんとリハビリしてしないの?」と憤ってしまいがちだけど、そうやって医療空間で無意識に達成すべきノルマばかり見てその人の「人間らしさ」を無視してしまっている自分に気づいてとっても悲しくなった
最近分かったんだけど「人間らしさ」を形成する要素の1つは、「首」だと思う。リハビリの際、首をあげることができず頭がだらんと下がった状態で車椅子に乗る父の姿が、わたしにとって「生気のある人間」とはかけ離れたものだったので、初めはショックで言葉に詰まってしまった。
個室に移動して、言葉は上手く話せないけれど、「この部屋気に入った?」と聞くと、とても嫌そうな反応をすると聞いた。もしかしたらお金のことを気にしているのかもしれない。悲しいというか、すごく心がぐっちゃぐちゃになる。わたしにはどうしようもないのにその事実は悲しいことだから、余計悲しい