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【百年ニュース】1921(大正10)11月5日(土) 原敬内閣総辞職。原敬首相が暗殺されたことを受け内田康哉外相が臨時総理大臣に就任。閣員全員の辞表を取りまとめ大正天皇に提出した。原の後継首相は元老西園寺公望が原と同じ政友会の幹部高橋是清を推薦し,他の二人の元老山県有朋,松方正義も同意した。

【百年ニュース】1921(大正10)11月4日(金) 総理大臣の原敬が東京駅丸の内南口コンコースで大塚駅転轍手の中岡艮一に襲撃され殺害された。享年65。午後7時25分群衆から突進してきた中岡が短刀で原の右胸に突き刺しほぼ即死であった。現在に至るも中岡の動機は解明されておらず謎が残された。

【百年ニュース】1921(大正10)11月9日(水) ワシントン会議を目前に控えた日本大使館で原敬首相の追悼会が開催される。出席者200名以上。幣原喜重郎米国大使に続き加藤友三郎,徳川家達両全権が弔辞。随員横田千之助によれば原首相はキリスト教の信仰心を最後まで失わなかった。

【百年ニュース】1921(大正10)4月5日(火) 原敬首相が官邸で新聞記者との懇親園遊会を開催。世論に影響するジャーナリズムとの関係を重視する原による,歴代内閣に前例のない催し。各紙が好意的に報道した。「議会関係の新聞記者を主として四百余名の記者を招き,官邸にて園遊会を開催したり」(原敬日記)

【百年ニュース】1921(大正10)7月31日(日) 原敬首相と内田康哉外相が揃って小田原古稀庵の山県有朋を訪問。内閣の外交方針を説明。米国が召集しているワシントン会議(海軍軍縮,日英同盟廃棄)への参加,シベリア出兵からの撤兵,また第一次大戦以降も占領中の山東省からの撤兵につき山縣の了解を得た。

【百年ニュース】1921(大正10)5月31日(火) 原敬首相が上京中の山県有朋を訪問(新椿山荘)。2月に狭心症を患い辞表を提出していた田中義一陸相の後任人事につき相談。田中陸相の推薦通り,田中直属の陸軍次官,山梨半造中将を内定。翌年山梨は陸軍史上初の軍縮(山梨軍縮)を実行。

【百年ニュース】1921(大正10)4月1日(金) 満州在住の朝鮮人農家の窮状を斎藤実朝鮮総督が原敬首相に報告。旱魃による資金難で籾の購入が出来ず,結局朝鮮総督府と外務省が各々1万5,000円ずつ救援資金を出資。しかし土地権利の曖昧さが障害に。同年末,東亜勧業株式会社(満州勧業,満州農事)設立に繋がる。

【百年ニュース】1920(大正9)12月5日(日) 原敬首相が姉この(見坊兼聴夫人)訃報に接し旅程変更し帰京。[この]は敬の叔父,原平治の娘。平治が35歳で家督を継ぐことなく早世したあと,平治の弟(敬の父)直治が[この]を戸籍に入れ育てた。1834(天保5)生れ,敬の14歳年上。敬は終生[この]を慕った。享年86。

【百年ニュース】1921(大正10)6月28日(火) 下田歌子が原敬首相を訪問。皇太子裕仁親王の欧州訪問に反対していた母親の貞明皇后は,今や訪問の成功を見て大変満足していると原に伝えた。原はこの時期元老山県有朋だけではなく,皇室の中心的存在の貞明皇后の信頼をも勝ち取った。

【百年ニュース】1921(大正10)3月24日(木) 原敬日記。原敬は10代の頃フランス人のエブラール神父に付き従いフランス語を習い,またカトリックの洗礼を受けた。その後外務省に進み外交官となるが,自身の信仰については進んで人に話すことはなかった。同日の日記にはローマ法王使節団の記述が見え,当時与党政友会を揺るがしていた満鉄疑獄事件につき,検事総長の平沼喜一郎から捜査状況と今後の見通しにつき報告を受けた。

【百年ニュース】1920(大正9)6月4日(金)飯野吉三郎が原敬を訪問。飯野は原にある手紙を見せる。それは貞明皇后が下田歌子に書いた礼状で、飯野の聖旨をまた聞きたい、皇太子外遊には反対、と書かれていた。外遊につき原の真意を糺す飯野に対し原は言質与えず曖昧に返答。

【百年ニュース】1921(大正10)2月13日(日) 田中陸相が小田原古稀庵の山県有朋を訪問。山県は栄典拝辞のうえ謹慎する意向。田中は帰京後原敬首相に内容報告。原は宮中某重大事件の善後策を検討,山県に代わり宮中に影響力を及ぼすようになる。まずは3月3日の皇太子裕仁親王の訪欧無事出発が目下の課題。

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【百年ニュース】1920(大正9)4月4日(日)ウラジオストクで日露両軍衝突。尼港事件を知り日本側強硬化。「夜田中陸相より電話にて浦塩において日露衝突ありし旨ただいま電報に接せりと云えり。とにかく政府の声明によりて然との方針を公示せしに何事を生じたるや、遺憾の次第なり(原敬日記 4/5)」

【百年ニュース】1920(大正9)7月28日(水)第43議会終了。八八艦隊予算(7億6,000万円)成立。所得税増税等が財源。衆議院では大多数を占める与党政友会が高飛車な議会運営。対する野党憲政会は連日院外団も巻き込み稚拙な乱闘騒ぎを仕掛ける。議会政治への国民の失望広がる。

【百年ニュース】1921(大正10)5月16日(月) 第1回東方会議(植民地会議)開催。5日間に渡り東アジア外交に関連する外務,陸軍,海軍の責任者を集め開催。原敬首相と田中義一陸相が進めるシベリア撤兵の実行を決定。シベリア出兵は政府が軍部を従わせ撤兵に成功した戦前最後の戦争。

【百年ニュース】1921(大正10)3月22日(火) 原敬首相の妻あさが芝公園の本邸に帰宅。あさは昨年9月に重いリウマチを発症,12月以降は修善寺温泉で療養していたが,3月10日に腰越の原敬別荘に戻り,そして同日東京の本邸に帰宅。「なお多少の故障あれども,大体全快なり」(原敬日記)

【百年ニュース】1921(大正10)2月2日(水) 原敬首相が首相官邸で中村雄次郎宮内大臣と面談,宮中某重大事件の収拾に関わり始める。山県有朋が主導した皇太子裕仁親王と久邇宮良子女王の婚約破棄問題が紛糾。山県はこの問題で窮地に陥るが,5月原により救われ,心酔するようになる。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月23日(火) 「閣議(官邸)、内田外相より今回来朝せし米国モルガン商会ラモント対我銀行団代表井上日銀総裁と対談要領および満蒙除外の件につき米英より返事の次第は、従来我が国が満蒙を勢力範囲なりと漠然主張せし趣旨よりはむしろ具体的に保証する事なるが返答(原敬日記)」

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【百年ニュース】1920(大正9)4月10日(土)「山縣を往訪、聖上御病気につき国書捧呈すべき三ヵ国の公使差し控えおる上に英国大使来任につき、これを延期せんことは同盟国として如何にも遺憾の次第なれば、戦時中イタリア等に前例もありたりと云うにつき、皇太子殿下御代理にて国書受領(原敬日記)」

【百年ニュース】1920(大正9)6月11日(金)中国への山東権益返還問題につき日本政府が回答を閣議決定。実質的な直接交渉の打切り容認で中国側の意図に沿うもの。直前の外交調査会では枢密顧問官牧野伸顕(前年パリ講和会議参加)より鉄道沿線からの即時撤兵案も出るが保留。

【百年ニュース】1920(大正9)6月24日(木)貴族院衆議院合同の尼港事件追悼会。貴族院代表徳川家達、衆議院代表岡崎邦輔に続き、原敬首相が弔辞を読み上げた。「断じて黙認寛恕することあたわざるところなり」。同日水戸でも尼港で全滅した歩兵第2連隊第3大隊の招魂祭開催。

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【百年ニュース】1920(大正9)8月4日(水)原敬首相が田母沢御用邸訪問。大正天皇のほか貞明皇后にも拝謁。皇太子裕仁親王の優れた公務状況を報告し、欧州視察の重要性を説明(皇后は洋行反対の立場)。野党重鎮大隈重信が奏上する与党政府への「悪口」が甚だしいと嫌悪感。