【百年ニュース】1921(大正10)11月5日(土) 原敬内閣総辞職。原敬首相が暗殺されたことを受け内田康哉外相が臨時総理大臣に就任。閣員全員の辞表を取りまとめ大正天皇に提出した。原の後継首相は元老西園寺公望が原と同じ政友会の幹部高橋是清を推薦し,他の二人の元老山県有朋,松方正義も同意した。
原敬内閣が総辞職しました。前日の夜7時25分、東京駅丸の内南口コンコースで内閣総理大臣の原敬が暗殺されました。享年は65歳でした。この緊急事態を受けて外務大臣の内田康哉が臨時内閣総理大臣に就任し、翌朝臨時閣議を開いて全閣僚の辞表を取りまとめただちに皇居に参内、大正天皇に提出しました。
当時の総理大臣の決定方法は、元老と呼ばれる特定の重要な政治家が、天皇の諮問にあずかる形で推薦し決定していました。このときの元老は山県有朋(83歳)、松方正義(87歳)、西園寺公望(71歳)の三名です。このとき山県はまず西園寺公望自身に組閣するよう促しましたが、西園寺は辞退し、原敬と同じ政友会の幹部高橋是清を推薦しました。他の二人の元老山県有朋と松方正義も同意して、11月13日に第20代内閣総理大臣として組閣をすることとなりました。
高橋是清は1854(嘉永7)年9月19日生まれで、原敬よりも2年年長になります。当時は67歳でした。同時に立憲政友会の第4代の総裁となりましたが、本人にとっても突然の就任であったため、政友会内部が混乱に陥り党内対立が激化します。その対立を収集するため、翌1922(大正11)年6月12日、高橋是清内閣は総辞職し、わずか8カ月の短命内閣で終わりました。
ところで原の突然の暗殺は山県有朋にとって大きな衝撃でした。山県は政党政治を嫌い、デモクラシーの妨害者であり続けましたが、晩年には原敬の手腕に心酔し、山県自身が宮中某重大事件で陥った危機を原が救ったことから、原に対しては大きな信頼を寄せていました。原が暗殺されたのち、その場面を夢に見てうなされるほどの衝撃を受けました。原を評して「原という男は実に偉い男であった、ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものでない」と語ったと言います。
1921年(大正10)11月4日、原敬首相は東京駅で暗殺される。翌日、私設秘書の松本剛吉は一番列車で小田原に行き、山県にその詳しい状況を伝えた。山県は、11月3日に「古稀庵」に戻ったから熱を出し、37度9分にもなっていたところに、昨日松方内大臣より電話で原の暗殺を知らされた。種々のことを考えたためか「非常に気分悪し」、と松本に告げた。山県は、原は「政友会の俗論党および泥棒どもに殺されたのだ」、「原が勤王家にして皇室中心たることを見抜き居れり、すごぶる残念だ」と言って涙を流した。
山県はその後も37度台の熱があったにもかかわらず、8日に元老西園寺公望と「古稀庵」で「貞子夫人」の手料理の昼食を取りながら会見した。山県は西園寺に強く組閣を勧めたが、西園寺は受けなかった。結局、10日に西園寺が高橋是清蔵相を後継首相として推薦することを提案、松方も同意した。翌11日、秘書官の入江貫一が「古稀庵」を訪れて、この事情を山県に話すと、山県は西園寺・松方が相談して決めたことであるので異議はない、「また泥棒どもの延長か」と言ったようである。
(中略)松本は、山県の治療に付き添っていた軍医が執事に語った話を聞く。それによると8日、山県は睡眠中に夢を見たようで、大声で「何だ、馬鹿、殺してしまえ、馬鹿な、馬鹿な」、「松本、松本」と言って目を覚ました。そのとき山県は軍医にむかって、「今、原を殺せしときの夢を見た、原という男は実に偉い男であった、ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものでない」と述べたという。
伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』文春新書,2009,452-454頁
原敬の暗殺はその後の日本が暗い道に進むきっかけとなりました。原の葬儀は、健全な日本外交と政党政治の発展にとって、落日への道の始まりだった、と伊藤之雄先生が述べられています。
原敬が死んだことにより、元老という存在は西園寺公望を最後に途絶えました。もし原が生きていれば原が元老となり、昭和天皇はその後の歴史のなかで適切な助言者を得られたはずでした。しかし現実には昭和期に入ると西園寺公望が唯一の元老となってしまい、ひとりで日本の未熟な政党政治を軌道に乗せようと奮闘することとなりました。もし原が元老として西園寺を助けたならば日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。
大正天皇が崩御し、わずか25歳で即位した当初、昭和天皇はまだ政治的に未熟でありました。昭和初期の「青年」昭和天皇は、立て続けに不適切な行動をしてしまいます。昭和天皇の独白録でも「若気の至り」と自身で振り返っていますが、1929(昭和4)年の張作霖爆殺事件後の田中義一首相に対する過剰な責任追及、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約に関わる上奏聞き入れ拒否、そして何といっても1931(昭和6)年の満州事変での日本軍の独断越境に対する甘い対応と追認などです。
昭和天皇には原敬のような円熟した有力者の助言が必要でした。しかし唯一の元老西園寺はすでに高齢で動きが悪く、また身近に仕える牧野信顕ら宮中側近は原ほど円熟しておらず、天皇への助言が不適切でした。その代償は非常に大きく、昭和天皇は軍部からの信頼を失い反発を買うことで、軍部への統制力を形成することに失敗してしまいました。
昭和天皇が軍部への影響力を落とすと、内閣も軍部をコントロールすることが出来なくなり、満州事変の拡大を止めることが不可能になってしまいました。原敬は台頭するアメリカの重要性をいち早く認識し、早い段階から日米関係をとりわけ重視していましたが、1937(昭和12)年に日中全面戦争が始まると、米国との関係は極めて悪化してしまいました。そして日中戦争がアメリカやイギリスをも敵に回したアジア・太平洋戦争への道を開いたわけです。
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