天正9年(1581)2月23日はイエズス会巡察師ヴァリニャーノが信長に黒人奴隷を献上した日。肌を黒く塗っているのではと疑った信長は体を洗わせたという。気に入った信長は26~27歳の青年に弥助と名付け武士として側近にした。本能寺の変では二条新御所へ走り織田信忠のため戦い捕縛された。
天正10年(1582)1月28日はイエズス会巡察師ヴァリニャーノらに伴われた天正遣欧少年使節が長崎を出航した日。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノという4人の少年使節は3年後にローマ教皇に謁見した。これによりヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになった。
天正8年(1580)4月27日は大村純忠がイエズス会に長崎と茂木を寄進した日。純忠は龍造寺隆信ら周辺勢力から長崎の権益を守るため巡察師ヴァリニャーノに申し出た。会の方針で所領の受領は禁止だったため対応に苦慮したが協議の末受け入れた。8年後に秀吉が同地を直轄地にするまで続いた。
天正9年(1581)2月23日はイエズス会巡察師ヴァリニャーノが信長に黒人奴隷を献上した日。気に入った信長は弥助と名付け武士にして側近とした。本能寺の変では二条新御所へ走り織田信忠のため戦い捕縛された。逃げ出すこともできた中で信長父子のため戦ったのは恩を感じていたのでしょうか。
天正18(1590)年6月20日は天正遣欧少年使節がヴァリニャーノとともに帰国し長崎に到着した日。4人の少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)を中心とした使節団は天正10年に長崎を出発しポルトガル、スペインを経てローマでローマ教皇との謁見を果たした。
天正7年(1579)7月2日はイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した日。天正遣欧少年使節を主導した人物。本能寺の変の際、信長には弥助と名付けた黒人の家臣がいました。もともとヴァリニャーノが信長にあった際の従者。信長がとても興味を持って譲り受けたといいますね。
天正7年(1579)7月2日はイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した日。天正遣欧少年使節を主導した人物。本能寺の変のとき信長には弥助と名付けた黒人の家臣がいた。もともとヴァリニャーノが信長に会った際に連れていた従者。信長がとても興味を持ち譲り受けたという。