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島原編:有馬セミナリヨ跡と日野江城跡
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有馬のセミナリヨ跡
巡察師ヴァリニャーノは1579年に来日した際、将来日本の布教は日本人に任せるべきと考え教育機関を建てました。セミナリヨ(神学校)は初め安土と日野江城下の2箇所にありました。
当時、最先端の授業を受けていた学校で天正遣欧少年使節の4人やペトロ岐部などが学んでいた場所です。建物の前には、広い運動場と離れたところには休養の別荘まであったようです。生徒たちは寮生活、授業内容は ラテン語、日本語、音楽をメインに学びました
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ヴァリニャーノは、服装や食べ物など学校のルールを日本の文化に合わせて細かく決めました。おやつは餅か果物で、畳は毎年替えるとか、私物で学校を散らかすなとか、風呂は夏は一週間ごと、冬は二週間ごととか・・・現代人からすると風呂週1はキツい
「食事は日本風で、美しい日本的な動作が守られねばならぬ。」
「すべての教育に際して、彼らが幼い者であり、日本の子供であるということを忘れてはならぬ。子供として愛情と温情をもって待遇すべき」
「神学校の部屋はことごとく、少年たちの手で細工された色とりどりの種々の切紙で飾られていた。」
「貴人や貴婦人たちも少年たちの工作を見せてもらいたいと願うので、彼ら全員に神学校の門戸を解放せざるを得ないほどであった。」
「見物であっても外来者は立ち入り禁止」
という校則もあったが(親族はOK)
さっそく破られた模様。どんな切紙か気になる
日野江城跡
セミナリヨ跡から車で5分くらいのところにある日野江城跡へ。少年使節を送り出したキリシタン大名、大村純忠と有馬晴信が生まれた城(純忠は有馬家の出身)
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フロイスいわく、黄金の品や絵画で飾られた屋敷はヴァリニャーノや他のポルトガル人たちも仰天するほど立派で、アビラヒロンもその豪華絢爛な城の様子をかいたそうですがもう石段しか残ってない。しかも
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草ボーボー・・・・・・・・・ちょうど草刈りしてるところだったとはいえ草すごすぎて城跡かわからず。一部崩落してて立ち入り禁止の場所などもあって、ウロウロしてたら裏から階段を発見、あがって本丸らしきところへ到着。
(二の丸はもっと石段もあってもう少し城跡ぽいようです。わからなかったので次回いったときに)
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当時は城の横がすぐ海で、島原の乱の決戦場・原城まで橋で繋がっていたとか。
少年使節の帰国後、晴信は城で一行を迎えてお祝いします。自領の人たちも呼んで演劇や舞踊など祝宴会をやったそう。「晴信自身も仮装して一行を歓待」とあり、秀吉の花見の仮装といい、現代のハロウィンといい、日本人って仮装好きなんだなと思ったり。
*有馬セミナリヨ跡
〒859-2305 長崎県南島原市北有馬町
*日野江城跡
南島原市北有馬町戊2444
アクセスは車がないと不便かと思います
ここから15分くらいのところに有馬キリシタン遺産記念館があります