全ての在るモノはコトワリに敷かれた道を歩む。 宿った自我もそのままに。 はじまりもなく果てもなく 時という幻想はあるがままと渾然一体。 この刹那にこそ全ての因果は縁で結ばれ 宇宙に見果てぬ夢をみせる。
誰もが言うだろう「私のせいではない」と。だが世界を完璧に客観視すれば、何事に対しても誰もが相応の責任を負っていて、誰もが多少なりとも「やらかしている」のだ。そのことに気づいて、運命には首を垂れて、それでも人に対しては胸を張って生きれるか否か。人の違いはそこにでる。
ここに一冊の本がある。多くの人たちがそれを読む。書かれていることは唯一だが、各々が抱く感想は様々だ。それこそが無数の自我のつとめなのだろう。思い、そのユニークな思いを一つ一つ宇宙意志が感受する。意思は望んでいる。唯一のあるがままに対峙して湧いてきた無数の思いを汲み取ることを。
全ての不幸も幸福も、私が己という存在にこだわっているから生じる。もしこだわりから脱却できたら、そこにはただあるがままの宇宙が広がる。分別にとらわれないそこには、あらゆる意味もなく、ゆえに幸不幸もない。だが意味は成していないが、宇宙の安寧はそこに、ある。
茫洋としたあるがままの宇宙で、なにかあるとされるモノは、縁どうしの結び目なのだろう。何かあるので縁が生じるのか、それとも縁があるから何かが生じるのか。恐らくそのいずれもその通りなのだろう。我らは縁の結実であり、同時に何かでもあるのだが、縁と何かは不可分性のものなのだ。
神と友の関係になければ、我に囚われた私は、困難多き人生をいかに渡っていけばよいのだろうか。だが今は私と神は友になれない。それは分かる。一つ言えるのは地上での友情のように、素直な気持ちを相手に伝えられなければ、絆も育めないということだろう。
ただ産まれて、ただ死んで生をまっとうする。この一事をもって人生の意味とする。死をもって新たな生が産み出されて、やがて還り、また産まれる。この環を成すことに真理がある。
当たり前の話だが、勤め人ならまず会社の要求に応えてから、己の要求を通そうとするべきだろう。義務を果たさなければ、相手もこちらの言うことに耳を傾けてくれるわけがない。そもそも会社からひどい義務を期待されることもあるが…まずは雇い主の要求をこなすのが世のコトワリなのである。