本音と建前 真実、事実と建前 行動のスターターは本音、事実、真実 でも最初に目にして、派手に動き出すのはのは建前の方…なんて考えてたところ 果実が建前、種は本音みたいな。 だとしたら本音は芽吹いて、建前は甘いとか、そのうちに腐れたりするのかな? と言う、とりとめのない思考に。
やっぱり、信用が大事やとおもう。 想いは伝えなあかんし、想いは裏切ってはいけない。 相手に嘘はついてはいけないし、自分自身にも嘘はついてはいけない。 相手の想いに寄り添える人になりたいのと同時に、自分の想いにまっすぐな人でありたい。ホント難しい。まだまだ心の修行中。
SDGsで”誰一人とりのこさない”という言葉があるが、みんなですればいい話で、僕がみんなに等しく振舞うのは無理と分かった。僕は無理でも、他の人がすればいい。僕が付き合いたいと思う人と付き合う。付き合いのグラデーションに気づく。やるべきことはやるが、それ以上でもそれ以下でもない。
そうか、先回りができなくなってきた時が子離れの時か
仕事の重さってあると思う。同じ仕事でも軽くする人は信用をなくし、重くやる人はめんどくさくなる。 結局は自分と同じ塩梅で仕事をする人がいいなーと思う。 でも、その加減がむずかしい。
会社でSDGsと言ってもピンとこないらしい。うーん、やっぱり僕は社内と社外で日本語を使い分けないといけないようだ
昔、親より先に死んだら地獄に行くと教えられた。当時はめちゃ怖かったので死んだらあかんと思った。 いま思うと、人生を生き抜くことの教えでもあるんやなーと思う。もちろん、周りが悲しむのもあるが。 生き抜くことも才能なんだと思う。
自分も含め、なんかわからんけど世の中に余裕がないよなーと思う。この急き立てられる感じは窮屈に思う。
なんでもそこそこやっちゃうのは起用ではない。なんでもそこそこできちゃうけど、生きるの不器用だから評価に結びつかない。 いや、評価はされているだろう。それが自分の望む方向がどうかが問題なのかもしれない。 やりたいことがここにあるか? いや、やりたいことをねじ込んでいく気力があるか?
IPSでは女子たちがお話し 唐揚げやではサラリーマンが晩ごはんのお使いをし 歩道では老夫婦が手をつないで歩き 路地では女子中学生たちがコーラスの練習をしながら帰宅する まちなかはやっぱり多様で包摂的だ!
汗をかける人間が信用されるけど、汗をかける人間って全方向に汗をかいてしまうので、自分のために使える時間が少なくなるのと、自分がどうしたいっていう想いが薄いから汗をかけしまうのかと思う。 自分の想いがある人は方向性に見合って汗をかくので、敵を作ってしまう。 生きるってムズっ!
失敗を許さない世の中だから人は「考える」という考えない行動をするんだろうと思う。 いつから失敗を許容しないようになったんだろう?子供が小さいときは許されたのに幼稚園や学校に行きだしてから失敗の許容範囲が狭くなったような気がする。
学校=社会のための学びの場とするなら、僕たちは社会=失敗が許されない(許されにくい)場所とおもっているのかもしれない。 それは失敗することで、もしかしたら僕たちが常識と思っている社会規範が壊されるからかも。 自分の子供の許容範囲は狭いのに他人の子供の許容範囲は広い。
つまらないことで悩んでいたら。 : うさぎの心 https://lineblog.me/miyuki1945/archives/3006168.html
つかうためにつくるを考えるは 使い続けるためにつくるを考えるなんだろうなー
オンラインもオフラインも参加する余白がいるよなー
最近思うこと 子どもたちのために僕たちは社会を作らなくていい 子どもたちは自分たちで生きていく社会を作っていけばいい 僕たちは僕たちが生きていく社会を作ればいい 自分の未来は自分で作ればいい その未来に愛する人たちがいるなら、一緒にいられる未来を作ればいい
今日は少年団のバレーで試合 いつもダラダラ練習している子どもたち でも実践になると びっくりするような動きを見せる。 びっくりするような表情を見せる。 びっくりするようなオーラを発する。 子供はすごい! 可能性の宝箱! そして、実践こそが人を育てると痛感する!
今日、毎朝のランニングで途中から全力疾走した。 息が上がるほど駆けた 最近、駆けてない 数年前、仕事で駆けずり回った まちなかで駆けずり回った いま居場所を感じる でも、駆けてない そろそろ駆けるときなんだろう 周りのこともあるけれど、いまは駆けよう。
子供に『夢を語れ』と言っているのに、自分は夢を語れない。そんな大人にはなりたくない。
仕事のやりがいに悩んでいる友達に「自分らしくがんばれ!」って言っときながら、今朝「仕事いくのなんか疲れるなー」と思っている自分がいる。