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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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#俳句

50 長岡のモダン茶屋の五月かな。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第五十回、最終回)

 昭和三十八年五月六日、その日の東京は、若葉に小雨が降っていた。 中村汀女主宰の俳誌『風花』十五周年大会に出席した久保田万太郎は、慶應義塾病院に俳句の弟子、稲垣きくのを見舞い、家に戻り入れ歯をはめて、画家、梅原龍三郎邸で行われた「明哲会」に顔を出した。到着は四時五分だった。  銀座の名店、なか田が鮨の出店をだしていた。  つがれたビールを飲み干して「じゃ赤貝でももらいましょう」と注文する。弟子達の証言によると、万太郎は食べにくい赤貝を注文することはなかったのたという。  

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49 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十九回)

暗転

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48 晩年のやすらぎ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十八回)

色男

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急に、彼が吉良上野介になったような気がしていた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十七回)

名声  昭和二十二年、慶應義塾評議員に就任して以来、万太郎には、数々の肩書きが加わっていった。  讀賣新聞社演劇文化賞選定委員、日本芸術院会員、芸術祭執行委員。昭和二十四年、毎日新聞社演劇賞選定委員、日本放送協会理事、郵政省、郵政審議会専門委員、文化勲章・文化功労者選考委員。  昭和二十六年、日本演劇協会会長、国際演劇会議代表。  昭和二十七年日本文藝家協会名誉委員。  昭和二十八年、俳優座劇場株式会社会長。  昭和三十一年、国立劇場設立準備協議会副会長、法務省、中央更正

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しぐれ氣味の、底冷えのする、しずかな、しみじみとした、何となく人戀しい日。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十七回)

 小説「寂しければ」には、上質な舞台劇のせりふを思わせるやりとりあ る。  仮に名優といわれるほどの役者によってこのくだりが上演されるとしたら、ことばの上には現れないゆたかなこころの揺れが観客に伝わることか。  成熟を見せるのは会話ばかりではない。この一節に続く風景描写もまた、詩人としての万太郎の素質をよく物語っている。  建仁寺にさしてゐた日かげもいつか消えて、庭のうへは、鶏頭も、とび石も、燈蘢も、何のことはない、枯々としてうすら寒いなかに、あきらめてもう首をさしのべて

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この祖母なかりせば。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十一回)

 万太郎はその作品のなかで、父、母、兄に対しては、肉親の情をいぶかしく思えるほど示していない。  追悼句さえも残さなかった。  例外は、祖母と早世した妹、最初の夫人の死後、身の回りのやっかいをかけた妹小夜子の三人である。    好學社版全集、第二巻の後記に、 「わたくしは祖母千代をうしなつた。大正六年の十月だった。・・・・・その祖母がわたくしにとつてどんな人だつたかといふことは・・・・いゝえ、どんな人だったかといふことを書こうとしたのがこの巻に収めた”妹におくる”である。この

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二十六七の時分、わたくしは、わけもなく日の光をきらつた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十九回)

 この年の十二月、演劇研究のために小山内薫は、シベリアを経てヨーロッパに向かう。出発前には、土曜劇場主催の送別演劇が行われた。 「『土曜劇場』を全くじぶんのものとして愛していた。西洋から帰ったら、一つあいつを自分の思うとおりなものにしてやろうと思っていた。」(小山内「新劇復興のために」)  が、旅先のパリの大使館で受け取った手紙には、土曜劇場の瓦解が報告されていた。  指導者不在のあいだ、ストリンドベリ『父』やイプセン『鴨』の上演が好評をもって迎えられ、有頂天になったあげ

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花柳界は、虚実のかけひきのなかで、恋愛を商品とする。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十七回)

 小島政次郎の『久保田万太郎』は、「まだ、対(たい、ルビ)で芸者と遊んだことのない私達は、芸者に対して一種異常な憧れを抱いていた。芸者といえば、荷風の相手であり、十五代目(市村)羽左衛門の相手であった。 そこに何かロマンティックな幻影を勝手に描いていた。」と、当時の文学青年が花柳界に抱いていた心情を語っている。  年若くして華やかなデビューを飾っただけに、万太郎には、実社会の経験もなく、生地浅草と家業の職人の生態のほかには、身をもって知る世界はない。  題材に窮した万太郎は

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しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十六回)

4 小山内薫     小山内先生追悼講演会  しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 「感情(かんじやう)の動(うご)き方(かた)があまりに微弱(びじやく)で、読(よ)んでは受取(うけと)れても、演(えん)ぜられては受取(うけと)まいと思(おも)はれる憾(うら)みがある。」「観察(かんさつ)の態度(たいど)の如何(いか)にも『芝居(しばゐ)』を離(はな)れた所(ところ)のあるのを買(か)つたのである。 ----小山内薫『万太郎「Prologue」選評』  荷風と時を同じくして、森鴎外

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某女と結婚せんとして果さず、憂愁かつ放縦の日を送る。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十五回)

 一方荷風は、万太郎をどんな目で見つめていたのか。 「三田文学(みたぶんがく)の諸兄近頃頻々(しょけいちかごろひんひん)として欧米各国(おうべいかつこく)に出遊被致候間手紙(しゆついういたされそろあひだてがみ)の代(かわ)りにと日常(にちじょう)の些事何(さじなに)くれとなく書留(かきとむ)る事(こと)に致候(いたしそろ)。」  にはじまる『大窪だより』は、大正六年にはじまる『断腸亭日乗』に先立ち、大正二年から三年の「三田文学」の周辺を伝えている。  『大窪だより』をたど

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浅草といふ興味多き特種の土地を描く。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十四回)

 明治四十五年 二月二十五日には籾山書店から、久保田万太郎、初の著作集『浅草』が上梓された。  跋は永井荷風である。跋もまた、あとがきに劣らず無愛想な顔をしている。 「旧来のやり方ならば序文や跋は要するに高尚な御世辞であつて、いやに遠回しに言葉たくみにその著者と著作の事を称賛して置きさへすればよかつたのである。否それが即序とか跋とか称するものであつたのだ。」  といわずものがなの前置きがまず、くる。  続いて、美点をあげるのは新進の作家にとって不利であると書き、ならば

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文学に志す以上は父と子の争ひをしなければならなかった。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十三回)

 七月、万太郎は徴兵検査を受ける。  旧徴兵令、旧兵役法は、兵役の適否を判定するため壮丁の体格、身上などの検査を定めている。  毎年、各徴兵区において満二十歳になったものは、検査を受けなければならない。  ただし、万太郎は文部省認可の慶応大学に在学していたために「徴兵ヲ延期」することができたが、六月猶予期限が切れかけたので、ここで一種の賭に踏み切った。  徴兵検査は、その体格に応じて、甲種・乙種・丙種・丁種・戊(ぼ)種に区分され、甲・乙種が現役に適する者、丙種が国民兵役に適

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どうせお前には商売ができやしないんだから。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十二回)

 荷風の『すみだ川』は、幼なじみへの恋心にやぶれた中学生長吉をめぐる物語である。  夏の日盛り。俳諧師松風庵羅(「羅」の上に草冠がつく)月が、浅草今戸にすむ実の妹をきづかうところからはじまる。  小梅瓦町から、堀割づたいに曳舟通りをゆき、隅田川の土手にあがって、待乳山を見渡す。  竹屋の渡し船にのって、向河岸に渡り、今戸八幡神社にたどりつく。妹お豊は、常磐津の師匠をしながら十八歳の長吉を旧制中学にやって、将来を期待している。長吉の子供時分の遊び相手のお糸が芸妓にでることに

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泥沼のやうな中に、忽然咲きいでた目もあやな一輪の花(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十一回)

 明治四十二年、万太郎が入学した慶応の文科は、予科、本科を足しても学生はようやく七人か八人。屋根裏の物置のようなところが教室で、そこには三四人の本科の学生が薄暗い顔を寄せていた。  当時の慶應はのちに経済学部となる理財科が看板であり、一年に在学していた水上瀧太郎の『永井荷風先生招待会』が伝えるように、「生徒の大部分が、月給取りになつて、後々重役になる事を夢見て居た」学校である。  作家を志すものなど一人もいなかったのである。  水上自身も、明治四十四年七月小説『山の手の子

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