どうせお前には商売ができやしないんだから。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十二回)
荷風の『すみだ川』は、幼なじみへの恋心にやぶれた中学生長吉をめぐる物語である。
夏の日盛り。俳諧師松風庵羅(「羅」の上に草冠がつく)月が、浅草今戸にすむ実の妹をきづかうところからはじまる。
小梅瓦町から、堀割づたいに曳舟通りをゆき、隅田川の土手にあがって、待乳山を見渡す。
竹屋の渡し船にのって、向河岸に渡り、今戸八幡神社にたどりつく。妹お豊は、常磐津の師匠をしながら十八歳の長吉を旧制中学にやって、将来を期待している。長吉の子供時分の遊び相手のお糸が芸妓にでることになる。
先の章で引用した宮戸座の立見の部分は、母親の重すぎる期待と失恋の予感に押しつぶされ、茫然自失した長吉が浅草公園をさまよい、芝居のおもしろさに辛い現実を忘れるくだりである。
府立三中で落第の憂き目にあい、慶應に移って間もない万太郎には、たましいの抜け殻となった長吉の行動は他人事とは思えなかった。
「この作のわたくしを魅了した所以は、一に、この作の主人公長吉の境遇にある。⋯⋯といふ意味は、その弱い、寂しい、引つ込み思案の長吉の性格のうちに、ゆくりなくわたくし自身を見出したからである。わたくし自身の少年の日をみいだしたからである。」(前掲「『永井荷風集』解説」)
万太郎は解説のなかで、『すみだ川』の登場人物が浅草の片隅や向島の住人でなかったら、こうまで無条件に傾倒しなかったかもしれないともいう。
先の章で引用したように、宮戸座の立見に迷い込む長吉は、万太郎にとってもうひとりの自分に思えただろう。
「⋯⋯いへば、"芝居茶屋"だの、"浚ひ"だの、"祭礼"だの、さうした文字のならんでゐるのをみたゞけで、すなはち目のくらむおもひの、それまでの文学は、さういつても、さういふ文字(もんじ)に縁がなさすぎたのである。さうした現実の美しさに目をふさぎすぎたのである。さうした人生を下積(したづみ)にしすぎたのである」(前掲「『永井荷風集』解説」)
馴染みの深い小梅、柳島、浜町河岸、今戸橋、山谷堀、公園裏、観音さまの境内、そして宮戸座の立見場が、すぐれた自然描写によって立ち上がってくる。
しかも、荷風の風景描写には季節がよりそっていた。
季節の移ろいが、ありふれた日常の風景にすぎなかった場所を、全く別の意味を帯びたものに変えていく。
「⋯⋯それは、いゝえ、たゞにそれ自身美しい文章であつたばかりではなく、いかにして見るべきか、いかにして感ずべきか、いかにして描くべきか。----最も新しい文学といふものがいまどこまで来てゐるのかといふことをはッきりわたくしに教えてくれたので⋯⋯」(万太郎『夏と町々』昭和四年六月一日より三十日まで、「時事新報」)
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。