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しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十六回)

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小山内薫

    小山内先生追悼講演会 
しぐるゝや大講堂の赤煉瓦

「感情(かんじやう)の動(うご)き方(かた)があまりに微弱(びじやく)で、読(よ)んでは受取(うけと)れても、演(えん)ぜられては受取(うけと)まいと思(おも)はれる憾(うら)みがある。」「観察(かんさつ)の態度(たいど)の如何(いか)にも『芝居(しばゐ)』を離(はな)れた所(ところ)のあるのを買(か)つたのである。
----小山内薫『万太郎「Prologue」選評』

 荷風と時を同じくして、森鴎外の推薦によって、小宮豊隆とともに慶応大学講師となった小山内薫は、だれもが認める新しい演劇運動の旗手であった。

 演劇の革新を標榜し、二代目市川左団次とともに自由劇場を設立した小山内は、明治四十二年十一月第一回公演として、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を有楽座で上演した。

 この日の感動を谷崎潤一郎は次のように書いている。

 氏が多くの俳優を惹き着けたのは、氏の機略に依るものではなくて、その秀才風の容貌と、それにふさわしい才気と、情熱と、学殖と、弁舌と、愛嬌とによつていることは確かだ。「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」開演の当夜、開幕に先立つて開会の辞を述べるべき舞台に現れた小山内氏は、実にそう云う青年であった。氏はフロツクコートを着、優形の長身を心持前屈みにし、幕のたれている舞台の前面をやや興奮した足取りで往ったり来たりしながら、徐に口を切った。
「私共が自由劇場を起こしました目的はでもありません、それは、生きたいからであります。」
 氏の唇から洩れた最初の言葉はこうであった。
(『青春物語』)

 客気にあふれた挨拶である。
 九代目団十郎が明治十一年、新富座の開場を記念して、当時の名士たちを前に、散切頭に燕尾服で挨拶をのべたことは第二章で述べた。
 それから三十年を隔てて、主演俳優でもなくましてや座頭でもない舞台監督が、開演を前に脚光をあびたのである。客席には、森鴎外をはじめ当時の知識人、文化人、学生が彼を見つめていた。谷崎は続けて、

 氏の血色は脚光のために赤く燃えてゐた。後にも先にも、氏が当夜の如く気高く、若く、美しく、赫耀としてゐたことはなかつた。「青春」のモデルに擬せられた氏は、今や小説の主人公も成し能はざることを成し、満天下の文学青年の渇仰を一身に集めて、空前の栄光を背負つて立つたのだ。あの有楽座の階上階下にぎつしり詰まつた観客は、一人として氏の風采と弁舌とに魅せられない者はなかつたであろう。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。