浅草といふ興味多き特種の土地を描く。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十四回)
明治四十五年 二月二十五日には籾山書店から、久保田万太郎、初の著作集『浅草』が上梓された。
跋は永井荷風である。跋もまた、あとがきに劣らず無愛想な顔をしている。
「旧来のやり方ならば序文や跋は要するに高尚な御世辞であつて、いやに遠回しに言葉たくみにその著者と著作の事を称賛して置きさへすればよかつたのである。否それが即序とか跋とか称するものであつたのだ。」
といわずものがなの前置きがまず、くる。
続いて、美点をあげるのは新進の作家にとって不利であると書き、ならば欠点をあげるかと思うと、それもしない。歯切れの悪い跋のなかで、次の一節が目をひく。
「自分はただ一言久保田君は其生れ落ちて人と成つた浅草といふ一番よう知抜いてゐる土地の生活を、芸術的興味を以て書いてゐるといふ事だけを紹介したい。改めて論ずるまでもなく、近代の有名な作家の傑作と称せられるものゝ中には其作家の故郷なる一地方特種の風景生活伝説を描写したものが少なくない。これは一面に於て切実なる写実的興味を呼起さしめると同時に、他の一面に於てエキゾチツクの情趣に触れさせるが故であらう。」(「久保田万太郎著小説浅草の跋」)
明治以来の近代の中心を担ったのは、あくまで山の手であり、近代文学もその例外ではない。
下町と山の手の比較がこの稿の目的ではないが、日露戦争後に誕生しつつあった知的な読者層が住むのは山の手であり、浅草は江戸の面影を引きずった辺境であり、異界であった。
そうした読者層にとって、浅草は、吉原や芝居小屋のあった猿若町ととも思い出される盛り場であり、エキゾチックな好奇心をそそった。万太郎があとがきで、「『浅草』といふ名は籾山氏がつけて呉れたものである。」と断っているのは、小説の背景に浅草を選んだとはいえ、みずからの生地、出自を売り物にする気恥ずかしさが込められているように思われる。
しかし、周囲の人々は、万太郎の名を浅草とともに記憶した。
たとえば芥川龍之介は、『野人生計事』(大正十三年)のなかで、浅草といふ言葉があたえる観念をあげている。浅草寺の伽藍、五重塔、仁王門を第一に。池のまわりの見世物小屋を第二とし、
「第三に見える浅草はつゝましい下町の一部である。花川戸、山野、駒形、蔵前ーーその他何処でも差し支へない。唯雨上がりの瓦屋根だの、火のともらない御神燈だの、花の凋んだ朝顔の鉢だのに「浅草」の作者久保田万太郎君を感じられさへすれば好いのである。」
両国生まれの龍之介にとっても、浅草は壮大な建築物と、見世物小屋のにぎわいと、つつましさを呼び出す一種の舞台であった。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。