某女と結婚せんとして果さず、憂愁かつ放縦の日を送る。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十五回)
一方荷風は、万太郎をどんな目で見つめていたのか。
「三田文学(みたぶんがく)の諸兄近頃頻々(しょけいちかごろひんひん)として欧米各国(おうべいかつこく)に出遊被致候間手紙(しゆついういたされそろあひだてがみ)の代(かわ)りにと日常(にちじょう)の些事何(さじなに)くれとなく書留(かきとむ)る事(こと)に致候(いたしそろ)。」
にはじまる『大窪だより』は、大正六年にはじまる『断腸亭日乗』に先立ち、大正二年から三年の「三田文学」の周辺を伝えている。
『大窪だより』をたどると、水上瀧太郎が、ニューヨークからナイアガラに旅をしたと手紙をよこし、澤木梢は、詩人ミュッセの石像を写した絵葉書で、パリに滞在中の島崎藤村と交遊を荷風に知らせている。(大正二年九月七日)。
荷風の文にあるように、「三田文学」の周辺は、この時期こぞって留学し、万太郎は東京に残されている。
水上は明治四十四年にハーバード大学へ留学、大正三年にはヨーロッパに渡って、ロンドン、パリをめぐって五年十月帰国している。
沢木四方吉(梢)は、慶応義塾留学生として。ヨーロッパへ旅立ち、マルセイユ、ベルリン、ミュンヘン、パリ、ニュールンベルグ、バンベルグ、アムステルダム、ロッテルダム、ロンドン、からフィレンツェ、ローマに遊んでいる。水上、澤木が外地から送ってくる原稿は次々と「三田文学」に掲載されていった。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。