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洞察力と感謝、「幸せ」の話。

最近会社で新しいクラスが生まれた。
Modern yogaというクラスで、FF機能を元に「自分の体で普段から働いている内側の働きを探る」ということをクラスの始めに取り入れ、その感覚を持って太陽礼拝やアサナを取っていく。


例えば、「内側の働き」はただ現代を生きているだけでは感じづらい。
内臓の働き、体全体が協力しながら一つの動きを作っていること、心臓の拍動、丹田周りの意識、、、(これを最近は「内受容感覚」と言うらしい)
それらは恐らく武士の時代やもっと社会が原始的だった時代にはヒトに備わっていた感覚だけれど、現代ではそんなものを観察しなくても生きていけるから、普通に生活していたら探していけない。

ヨガのクラスでは、よく、解剖学的に身体をの使い方を教えたりする。
けれども、そもそもただ「生活をしている」だけで、身体は機能的に働いてくれている。気づいていないだけで骨に近い筋肉たちも身体の中を蠢いてくれいている。


Modern yogaのクラスの序盤はそれに「気づいていく」プロセス。


テーマの一つに、「ヒトの身体にそもそも備わっているフィードフォワード機能(四肢を動かそうとした時に背骨に近い体幹が先に働くことで、身体の一部に負荷をかけることなく効率的な動きを作る機能)」を取り入れて内観をし、そもそも普段から働いてくれているものを認識していく。


クラス冒頭でそれを探る=その内的感覚を使って、身体の機能を探りながらヨガの太陽礼拝やアサナを取っていく。


3ヶ月ほどこのアプローチをクラスで提供しながら、自分の実践でも取り入れてみた。


私自身、実践を始めた当初は、クラス冒頭で探った「内側の感覚」を他の動きやアサナの中で見つけることが難しかった。
ただ、「本当に自分の機能を信頼して」「続けて」「実践する」を繰り返してとしていたら、確かに、太陽礼拝の中で「内側の感覚」が途切れずに在る方が心地が良い。ずっと自分の重心がさまざまに動きながら、身体の内側がアクティブに反応していって、さまざまな部位が協力しながら共存していく。


また実践を続ける中で、私の内側でこんな機能があって、今まで「ただ生きている」だけでも働いてくれていたんだなということに気づくと、自然と「ありがたい」と思うようになってきた。
私の身体の中でいろんなものが共存して、この身体を維持してくれていて、今まで、何も意識をしなくてもこの身体を生かしてくれてたんだな、と。


そう思うと、そもそも私の身体は完全だったことに気づく。
プラスで新しく筋肉をつけようとか、見た目をどんなふうに改革しようとか、それらの前に、そもそも親からもらった今の身体は完全で、こんなにも脈々と地球上に在る。なんて素晴らしく、有難いことか!


このことは、社会の中の人間関係ともすごく似ているなと思う。
ただただ社会生活をこなしていると、今あるものの素晴らしさに気づかないことがある。
身近にいる家族の優しさや愛情に気づかなかったり、友人と過ごす時間のかけがえのなさに気づかなかったり。
けれどそれを意識的に捉えた瞬間、感謝って意外にもすぐ湧いてくるし、自分の置かれている状況や、当たり前にその場にあるものが有難いことだと気づく。


はたまた、生活の中でも、いつも歩いている道沿いにお花が咲いていて生命の素晴らしさに気づいたり、太陽が日々上がってくる有り難さに気づいたり、トイレが流れることの有り難さに気づいたり、、、マインドが落ち着いて意識的に物事を捉えられると、気づきと感謝が増える。


自分の身体って生まれた瞬間から一緒にいるし、人生で一番一緒に過ごす存在だから、見つめることを忘れてしまうけれど、
自分の身体の内側を見つめて、その機能を認めて、感謝をすることは、「周りにいる人やもののかけがえのなさに気づいて感謝をすること」「毎日何もせずとも新しい1日が始まるのに気づいて感謝をすること」と同じアプローチだと思う。


「気づくこと」は洞察力。会社や人間関係の中で養われる洞察力を、自分の身体の内側にも向けてあげる。身体に対しての洞察力が養われていくと、今度は人間関係の中での洞察力が鋭くなる。社会や、自然に対しての洞察力、自分の生活に対しての洞察力も鋭くなる。
洞察力が敏感になることは、時に「神経質」に転じて自分自身を傷つけたりするけれど、感謝と愛情を持って洞察力と接している間は、それは自分のことも周りの人もより良い方向へ引き上げてくれるものだと思う。


気づいて感謝ができて、その幅が広がって、「今あるこの身体のままで」「今置かれている状況のままで」「今の社会のままで」感謝を感じられて満たされることって、それが「幸せ」のなんじゃないかなと思う。
それが「サスティナブル」で、「共存」で、「優しさ」で、「SDGs」で、「誰かに与えること」を体現するための材料なんだと思う。
「感謝」して「幸せ」を実感できるから、「与えたくなる」。
「何かを想って与える」ことが、また私に「感謝」を生んで、「幸せ」を実感できて、そしてまた「与えたくなる」。
これが愛情の循環なんじゃないかなあ。
価値観って移ろっていくけれど、少なくとも、今この瞬間の私の価値観ではそう思っている。


ヨガは、社会や周囲の人の対して「気づいて感謝をする」ことを、自分の身体を使って練習する手段。別にそれはヨガじゃなくてもできるし、例えば太極拳だって、宗教だって、茶道だって、ヒトの精神性を伴うものは割と同じようなことを言っていたりする。
スティーブ・ジョブズ氏は禅を取り入れていて、仕事を辞めて日本の禅寺に出家しようとしたことがあるらしいが、「会社を続けていくことがあなたにとっての禅の体現だから、おやめなさい」と断られたらしい。
手段なんてなんだっていいし、何を使って気づきを得て感謝をして、自分の心の器を広げていくのかなんて、本当に人によってさまざまだと思う。

ただ、多くの人にとって、ヨガが「生きる」の支えになることの片鱗を、自分の身体や心を使って、体感している。

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