音楽史18『近代音楽-前編-』
ロシアの作曲家達
19世紀後半のロシアから活躍した音楽家としてはセルゲイ・タネーエフやアントン・アレンスキー、アナトーリ・リャードフなどの教育者や、リムスキー=コルサコフの愛弟子で共にベリャーエフ・サークルに参加し、ロシア音楽界にあった民族主義と国際主義の音楽性を融合させた重要な作曲家とされるアレクサンドル・グラズノフなどがいた。
ロシアの近代音楽はチャイコフスキーなどを輩出したロシア国民楽派が衰退したところから始まり、アレクサンドル・スクリャービンは当初は後期ロマン派様式であったが、後期には超人思想や神智学に傾倒して前衛的な「神秘和音」という技法を作りだして多用、最終的には新ウィーン楽派と同じように無調音楽を作曲し、国際的に大きな影響を与えた。
ロシア革命でロシア帝国が崩壊してソビエト連邦が成立して以降は、「ロシア・アヴァンギャルド」という前衛的な芸術思想が流行、スクリャービンの前衛的な音楽技法もその一環として大きな影響力を持ったが、ソビエトを建国したレーニンが死にスターリンがトップになると前衛的なロシア・アヴァンギャルドは迫害され消えることとなる。
また、スクリャービンと寄宿の同級生で友人であったセルゲイ・ラフマニノフはピアニスト、そしてアレンスキーやタネーエフにより作曲家として教育されその後に『前奏曲嬰ハ短調』で名声を獲得、しかしその後の『交響曲第1番』が大失敗、『幻想的小品集』なども書くがスランプに陥り、精神科医に捧げた『ピアノ協奏曲第2番』で大成功、『死の島』『交響曲第2番』、そして著名な『ピアノ協奏曲第3番』などを作曲、革命でロシアが混乱すると亡命し『パガニーニの主題による狂詩曲』などを作曲した。
スクリャービンやラフマニノフより少しだけ後の世代ではレインゴリト・グリエールや近年再評価が進んでいるニコライ・ミャスコフスキー、ニコライ・メトネルらがいる。
また、19世紀初期にはロシアのセルゲイ・ディアギレフというプロデューサーが「バレエ・リュス」というバレエ団を結成してフランスの首都パリで活躍、近代音楽への移行の最重要人物である先述したドビュッシーやラヴェルもバレエ・リュスに楽曲提供していた。
そのバレエ・リュスの中でロシア革命でフランスに亡命してきたロシア人でリムスキー=コルサコフの弟子であるイーゴリ・ストラヴィンスキーによる民族的要素の強い『火の鳥』『ペトルーシュカ』が大成功を果たし、その後、最も著名な『春の祭典』を発表、多調、強烈なリズム、変拍子など前衛的な内容であるがこちらも大ヒット、フランスで大きな影響力を持った。
以降も原始主義音楽と呼ばれる作風で『結婚』『兵士の物語 』を発表、第一次世界大戦後には『プルチネルラ』などの新古典主義の走りとなる作品を発表し、第二次世界大戦ではアメリカに移り亡命していたドイツのクルシェネクの影響を受けて十二音技法を導入して『放蕩児の遍歴』などを作った。
イタリアの作曲家達
19世紀末のイタリアでは先述したポンキエッリに師事していたピエトロ・マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』が大成功し「ヴェリズモ・オペラ」というヴェリズモ文学、つまり当時のイタリアで社会矛盾を背景に流行していた「ヴェリズモ(真実主義)」の小説の様式に影響されたとされる日常生活、残酷な暴力などの描写を多用、音楽的には声楽技巧を廃した直接的な感情表現に重きを置き、重厚なオーケストラを駆使するという「ヴェリズモ・オペラ」が流行した。
ルッジェーロ・レオンカヴァッロのオペラ『道化師』もヴェリズモ・オペラで大成功を収め、その一方で、同じ時代のジャコモ・プッチーニはヴェリズモ・オペラの影響を受けながらロマン派風の作品も作ると同時に、ドビュッシーやラヴェルのような印象主義音楽の全音音階や不協和音を多用するなど最先端の技法を取り入れていった。
プッチーニは現在もよく上演されるオペラを多く作成した音楽史上で最も有名な人物の一人で、初期には声楽曲『ミサ曲』を作曲、その後に先述したポンキエッリなどに師事してオペラ『エドガール』を作曲し、『マノン・レスコー』で名声を獲得、イッリカとジャコーザの脚本家コンビと組んでオペラ史上で最も著名な作品たちである『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』を発表した。
しかし、そんなプッチーニに脚本家の死や家庭内の揉め事が起き、その後には『西部の娘』や三つの作品を一夜につなげる『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ("私のお父さん"含む)』の三部作、死去した後に残された『トゥーランドット』は友人のフランコ・アルファーノによる補筆と著名な指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニによる仕上げと初演で現在ではこちらもオペラ史上最も著名な作品の一つとなっている。
また、その後、オットリーノ・レスピーギはオペラが音楽の中心だったイタリア音楽界の中でロシアのリムスキー=コルサコフの指導を受けて器楽を盛んに作曲、先述したサティの教会旋法の復興なども行い、交響詩として『ローマの噴水』『ローマの松』『ローマの祭り』のローマ三部作が特に著名となっていて、レスピーギと同世代のカゼッラ、マリピエロ、ピツェッティらは多調や新古典派などフランスの新しい音楽を本格的にイタリア音楽に取り入れた。
北欧の作曲家達
19世紀末から20世紀前半の北欧のクラシックでは多くの著名な作曲家が現れたが、その作風は近代音楽というより後期ロマン派の要素が強く、本格的に近代音楽に変わったのはもう少し後である。
北欧フィンランドの巨匠ジャン・シベリウスはドイツ留学を経て交響詩『エン・サガ』『レンミンカイネン組曲("トゥオネラの白鳥"含む)』、管弦楽の『カレリア』などを作曲、ロシアがフィンランドのロシア化を進め始めると愛国心を高めて著名な『フィンランディア』を含む交響曲第1番を発表、その後には交響曲第2番やヴァイオリン協奏曲を作曲、その後には暴飲暴食や大病もあったが復活し交響曲の4、5、6、7番を作曲するが1920年代半ば以降は作曲を行わなくなった。
それと同世代のデンマークのカール・ニールセンは新たな復調などを導入して『四つの気質』『広がり』『不滅』などの交響曲や『仮面舞踏会』『サウルとダヴィデ』などのオペラ、その他『クラリネット協奏曲』などを作曲するが生前はそこまでの評価は得られなかったが現在ではデンマークで最も著名な作曲家である。
また、他にも北欧ではスウェーデンのヒューゴ・アルヴェーンが後期ロマン派的な作風の主要な作曲家となっており、ノルウェーのクリスティアン・シンディングはグリーグ以降のノルウェーで最も重要と見做されている。
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