前向きな諦め
「あきらめる」
この言葉だけからだと、どちらかというとマイナスのイメージがあるのではないでしょうか。
たとえそれが本意であってもなくても、物事を途中で放り出したり投げ出したりする行為についてこの言葉を使用しますよね。
漢字で書くと「諦める」。
実はこの言葉の語源は仏教用語の「諦観(ていかん)」にあるようです。
真理や道理のことでもあり、物事の道理を明らかにすることで至る心境のことでもあります。
「諦める」ことで、現状を受け入れることが可能となり、だからこそ解決の方法がみつけやすくなる。
語呂合わせではないですが、「あきらかにみる」から「あきらめる」ということになるのですよね。
以前も少し触れましたが、会社の方針に「重点主義」というものがあり、これは経営コンサルタントの一倉先生の教えのひとつでもあります。
働くという漢字は、「人」が「動く」とも読みますが、もう少し分解してみると、「人」が「重」点に「力」を注ぐこと、とも読み解けます。
つまり重点主義とは、「物事を進める場合に、最優先順位を決めてそれに基づいて集中的に行動すること」です。
ということは、やることとやらないことをはっきりさせる必要があるわけで、最優先事項を洗い出すよりも前の段階としては、「してはならないこと」と「止めるべきこと」を重視する、つまりは「あきらめることが何なのか」を明確にすることがとても大切な要素になるということです。
自分に当てはめて考えてみましょう。
かの孫正義さんは、頭髪の薄さを指摘された際に、「髪が後退しているのではない、私が前進しているのだ」という名言を残されていますが、まあ私もこの類なわけで、なぜそのような結果になったのか、どうしてこうなったのかその原因をあきらかにみてみましょう。
子どもの頃から喧嘩っ早くて、そして今考えるとおそらくその頃は今ほど理解力もあまりなかったと思うのですよね。
ちょっとからかわれるような扱いを受けたと感じると、全身バネのように身体ごと飛び掛かって、年上だろうとなんだろうとおかまいなしに髪の毛をひっつかんでむしり取ったり、狂犬のように噛みつけるところはどこにでも噛みついたりしていました。
今考えると何であんなに瞬間湯沸かし器のようにスイッチが入って暴れていたのか不思議なのですが、とにかく幼少期にそういう時期があったことを最近思い出しています。
ということで、何が言いたいかといいますと、過去に散々他人様の髪の毛をむしり取ってきたわけですから、因果応報というか今その分が削減されているというのは仕方がないことなのかなと思っています。
なので、「してはならないこと」「止めるべきこと」としては、もう毛根の強化には拘らない。それから、髪の毛のある人のことを羨ましがらない。
「諦観」には「悟りの境地にあって物事をみる」という意味もありますから、この境地に至っている私は今後も髪の毛以外のことに力を注いで生きていく覚悟を決めているのです。
くだらない話にお付き合いいただきまして、いつもありがとうございます。