あなたは何者かにならなくて良いかも
ミシェル・ド・モンテーニュという哲学者をご存知でしょうか。
彼はフランスのルネサンス期を代表する哲学者です。
彼は「幸福を求めれば、必ず不幸という反動が必要になる」と考えていました。
人生にはニュートラルポジションというものがあります。
たとえば、プラス、とマイナスという二つがあったとして、
痛みや苦しみが起きるとマイナスのほうに沈み込むと考えてください。
しかし、例えば人生ではマイナスが起きてもニュートラル、つまりプラスマイナスゼロの地点に戻ろうという
力が働きます。
そういったものを運気と捉え考える人がいるのです。
一方でジャンクフードやコーラ、覚醒剤のような、いわゆる「快楽」はプラスだと考えてください。
それは「プラス」になるので、そういった快楽を得ると、通常、次は「マイナス」が起きてくる・・・
そのプラスが強ければ強いほどマイナスも大きくなり、不幸になる・・・
みたいな考え方をする人もいる、ということです。
そういったことを認識した上で
「努力」について考えてみると、
例えば筋肉をトレーニングなどをした場合、
苦しみが当然ある程度生じます。
しかし、それにより「マイナス」に沈み込むわけです。
マイナスに沈み込むと当然プラスも生じやすい・・・。
社会で生きるために歯を食いしばって努力している人もいると思います。
モンテーニュは「人生はブランコのようだ」と考えていました。
「幸福を求めれば辛さは一生付きまとう。だったらもっと適当に生きたらいいじゃないか」と考えたのです。
たとえ立派になったって人生はブランコのようなものなので、
幸福を求めれば必ず不幸という反動が必要になる。
どこまで行ってもそうなんだからもっと適当でいいと考えたのです。
「必死に走ればすぐに息が切れてしまう。
だから私はもう走らないぞと決心している。
ゆるく歩くだけで十分じゃないか」
とモンテーニュは考えていました。
努力、ということでいうとランニングとかで強力に走る人がいます。
しかし、そういう強い運動は心臓にも負担がかかります。
またすぐ息を切らしてしまうでしょう。
そういう強い運動をすれば、それは強い努力ということになるので、
上記で説明した理屈で考えると、
その反動である種の幸福が来るのかもしれません。
しかし、毎日ゆるく歩くだけで、それなりの負担になるわけです。
それぐらいの負担でゆるく気軽に、運動したほうが良いではないか、という考え方だと思ってください。
つまり彼は必死に走れば走るほど苦しみも大きくなってしまう。
であるならばもっとゆるく気軽に歩くだけでも十分じゃないかと考えていました。
もっと自分のペースで生きれば良いじゃないかと考えたのです。
彼はこのように考えました。
「苦痛の感覚を根絶やしにしてしまえば、同時に快楽の感覚も根絶やしにすることになる。
つまり結局、人は幸福を求めれば求めるほど
苦痛を受け入れるしかなくなる」
不幸という対価を払うことでしか幸福を買うことはできないという考え方です。
モンテーニュは不幸の分、幸福が大きくなるとしても
それでもなるべく「不幸を減らすべきだ」と考えていました。
モンテーニュはそれを多くの人に推奨したというよりは、
モンテーニュ自身はそのほうが自分に合ってると考えていたのです。
モンテーニュはそれが生き方の正解として語ったのではありません。
彼の書いた本、「エセー」では、彼は、これらの考え方は「あくまで私という自分にとっての正解を書いただけだ」と言い切っています。
彼は人生はブランコのようだと考えて、
人は、「自分に合った振り幅」を決めればいいと考えていたようです。
「幸福が少なくてもいいけど不幸も少ないほうがいい」と考える人もいれば、
競争して勝っていき、苦しみながら幸せを得たいと考える人もいるでしょう。
しかし、走るより歩いたほうが良いとモンテーニュは考えていました。
たとえば大金持ちとか成功者を見て、
そういった「何者かになりたい」と思う人がいる一方で
モンテーニュは「何者かになれた人」かもしれませんが、
しかし、「何者かになるのはそんなに良いことじゃないよ」、とモンテーニュは伝えたかったのかもしれません。
まぁ簡単に言うと「普通が一番幸せ」なんですね。
今ある、ささいな幸せに感謝して、日々過ごしていきたいですね。
ここまで読んでいいただきありがとうございました。