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【これは偉大なる教育映画!?】 『マッドマックス:フュリオサ』偉大なるジョージ・ミラー監督

※ネタバレ注意!!!!!!

とんでもない映画だったが、
まだ現時点で上手く言語化できない。

あと、映画内世界への没入感が凄まじく、
夜中に寝ているといまだにマッドマックスの世界にトリップする笑。

さて、
まず、MVPはフュリオサの子役。

彼女が一人で映画を引っ張って行った。

そして、そもそものマッドマックスのコンセプトである

「人類文化滅亡後の世界」のダーク感が色濃く復活している。

オリジナルシリーズは「人力」であったが、
VFXを駆使した本作は「末法」感が激しくブーストされている。

今現在の人類は「進歩」とか「民主主義」とか「人道」とか「道徳」とか「SDGs」とか言っているが、

結局、「リセット」されたら、
元も子もない「暴力」と「差別」と「抑圧」と「略奪」の世界になるのだ(マックスの世界観は、現在の人類の「未来」を描いている)。

つか、私が住んでいたメキシコ社会はほとんど「現実のマッドマックス」だな笑、
メキシコでは人間の命の値段は50円くらいだ。

そして極めて重要な教訓なのだが、

主人公のフュリオサが「怒りの」フュリオサになった理由は、

「本人が下手こいたから」

なのである。

まずは冒頭に夜盗暴走バイク集団に自分からチョッカイを出して誘拐され、

その所為でお母さんが拉致られて、

せっかくお母さんが身を挺してフュリオサを逃がしたのに、
ノコノコとバイク集団のキャンプに戻って自分も再度拉致られ、

結局お母さんも惨殺され、、、、

私はスクリーンの前で、

「おい!何やってんだ!!!!」

と頭を抱えて叫んだ。

因みに私が考える正解は、

「夜盗暴走バイク集団を見つけたら、コッソリと戻って大人に報告する」

である。

で、前作『怒りのデスロード』に続く未来では、
結局故郷の緑の楽園は潰されている訳で、

もう全く元も子もない、
ガキが下手打って大人が酷い目に遭うだけのお話である。

それを、何だか知らないが被害者面して、自分のヘマで死んだお母さんの仇を打つとかなんとか、、、

その意味で、ラストでフュリオサと対峙した瀕死のディメンタスの演説は心に響いた。

「オレとオマエは同じだ」

いや、全くその通り!

2時間前からオレは分かってたけどね!

とスクリーンの前の私は大きくうなづいた。

ディメンタスのクマさん人形は、「彼の亡き娘」の形見なのだが、
彼は無き娘の面影を幼少フュリオサに見ていたのだ。

だから、ディメンタスのならず者軍団から幼少フュリオサを守ったし、
彼女にガスタウンを破壊されても命までは取らなかった。

その彼女に追い詰められ、彼女が最終的にディメンタス生殺与奪権を手にする。

その「因果応報」の連鎖、この「末法」感、
というか、
This is 末法。
なのである(メロン記念日の名曲をサンプリングしてみました)

そして重要なシーンは、

ディメンタスvsイモータン・ジョーの「最終戦争」の前に、

この「マッドマックスの世界は、現実の我々の世界の未来」
であることに直接的に言及する。

人類の戦争の歴史に触れながら、
「第一次世界大戦、第二次世界大戦、大三次世界大戦、、、」

と、マックス世界が「第三次世界大戦後」の世界であることを大変に分かりやすく説明してくれる。

私がこの映画から受け取ったメッセージは、

「人類はやっぱりアホだった」

ということである。

そして、

まだ我々の現実世界では「第三次」は起こってないのだから、

真のアホになるかならないかは、スクリーンの前のキミたち次第だよ。

ということなのである。

つまり、
唯一の「希望」は「スクリーンの外の現実の我々」の中にまだ辛うじて残ってますよ

という訳だ。

現在ですら、こんなアホな世の中にウンザリなのに、
もっととんでもなく酷い未来を我々の目の前にポンッと置く。

「このままだとキミたち、こうなっちゃうよ~!」

実に見事な「教育映画」である。

最後になるが、
とにもかくにも異様で異常なエネルギーの塊映画であった。

あまりにドキドキし過ぎて一部の記憶が飛んでいるので、

もう一回観よう、

そうしよう。












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