20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第14話
「じゃあ、バンコク中央駅のホームの13番目のベンチで会おう」
コヤマとそう言って電話を切った。
「よお、タイ行かねえか?」
コヤマからタイ旅行を提案されたのは1989年の2月、
大学の卒業旅行として3月の始めから1週間ほどタイに行くという計画であった。
「いいね」
相変わらず私はあっさりと答えた。
「タイ、どう?」と森田公子を誘ったら、彼女もあっさりと参加することになった。
彼女はインドに旅行するようなイカレた美大生女子なので、タイのワイルド・ツアーなど全く意に介していなかった。
1990年の3月に入り、春の気配が少しづつ色濃くなるころ、私と森田公子はバンコク行の飛行機に乗った。
コヤマは一足先に現地入りしており、我々はバンコク市内で待ち合わせる手はずとなった。
夜中にバンコク空港に到着すると空港内のベンチで夜を明かし、早朝のバスに乗った。
天気は快晴、物凄い湿度と暑さだった。
早朝から道はトゥクトゥクで溢れかえり、おんぼろの車とバイクの群れはクラクションを鳴らしまくっていた。
その狂騒の中を、バスはバンコク中心地へと向かった。
バスを終点まで乗ると、バンコク中央駅は歩いてすぐであった。
バスを降りて街並みを見回すと、いわゆるバラックだらけであった。
暑さと湿気の中、香辛料の匂いがむせ返るようである。
時間になったので駅構内に入り、「13番目」のベンチを探した。
我々二人で順番に数えていくと、ベンチは10脚しかなかった。
「13番、無いねえ」
と森田公子と二人で顔を見合わせていると、もと来たホームの先から満面の笑みをたたえたコヤマがこちらに歩いてきた。
そして一言、
「要件を聞こう」
というや否や、コヤマと私は大爆笑した。
「どうよ?タイ」
「ベンチ、13個無えじゃねえかよ!」
「オレもさっき来て数えた」
「ワハハハハハハハ~!」
駅構内に鳴り響くように破顔一笑すると、
早速我々三人はバンコクの街に繰り出した。
路地という路地は本当にそのまんま日本の昭和30年代であった。
私は静岡の田舎で育ったので、ちょうど東京の昭和30年代の雰囲気は田舎の昭和40年代であった。
まだ戦争の影響が色濃く残っていて人々は貧乏であった「日本のあの頃」の風景がそのままタイには残っていた。
なんとも言えない「時間差」の郷愁感である。
交通こそ荒っぽいが、人々はノンビリと暮らしていた。
タイに着いて一泊した翌日から、我々は行動した。
タイでの食事は基本的に屋台。
50円も出せば驚異的な美味さの「ぶっかけ飯」が食べられる。
もう本当に、美味い。
食後には、生の実にそのままストローを刺した「生ココナッツ・ジュース」である。
もうここは「食の楽園」であった。
我々はカオサン通りをブラつき、さらにトゥクトゥクを駆使して中華街へと向かった。
バンコクには大きな中華街がある。
我々は一つのお店に入った。
まずはシュウマイが食べたくなったが、メニューは中国語だし店員も中国語かタイ語しか分からないので、森田公子に「シュウマイの絵」を描かせて見せたら、店員が「おー!シュウマイ!」と喜んで、シュウマイを持ってきたくれた。
さすがは美大生である。
おい、じゃあ燕の巣の絵も描いてよ、と言うと、見事な燕と燕の巣の絵を描いた。
今回のタイ旅行で、我々は「燕の巣のスープ」にハマっていた。
日本で食べたら大変なお値段だが、500円から高級品で1,000円程度で食べることが出来た。
店員に絵を見せると「おー!〇×※〇!」と言って喜んでいたので出てくるのを待っていたが、最後まで何も出てこなかった。
我々は顔を見合わせて苦笑した。
そして夜はムエタイ。
「格闘技ファン憧れの」ラジャダムナン・スタジアムへと向かった。
リングから15メートルほど離れたスタンド席にいたが、リング上で子供選手の放ったミドルキックに思わずのけぞってしまった。
ムエタイは「賭博」であり、金網に隔てられた最安席では、バンコクのおっちゃんたちが金を賭けて、膝蹴り(チャランポ)を入れるたびに「オーイ!オーイ!」と絶叫していた。
そのあとは、学生エリアに行ってジャズ・クラブで「タイ・ジャズ」を聴いた。
そして翌日、
「アユタヤに行くぞ」
とコヤマが行った。
私は相変わらず旅程は全てコヤマに任せてあったので、言われるがままにチケットを買って、三人はバンコク中央駅からアユタヤ行の汽車に乗った。
汽車バンコク市街地を離れるとメコン川に沿って北上した。
そこはタイの自然の中、メコン川の川辺で暮らす人々のバラックが立ち並んでいた。
西陽に照らされるメコン川沿いの人々の質素な原始的ともいえる暮らしは神々しくもあった。
夕方になって、アユタヤに着いた。
駅はボロボロ、駅を降りるとまるで「戦後の闇市」のようなバラック・マーケットが広がっていた。
土の地面に、バラックの市場の天井には裸電球がぶら下がり、屋根や周りはトタンでおおわれている。
そこら中に犬がグッタリと寝ており、間違って踏んずけても反応しない。
その「闇市マーケット」で我々は夕飯を食べた。
バンコクが日本の「昭和三十年代」ならば、アユタヤは「戦争直後」である。
そして一泊500円のバラック宿に泊まることとした。
夜は近所のバラック飲み屋で酒を呑んだ。
夜も更けてきてストリートに出ると、街には屋台が溢れ、真っ暗な街並みの中で数々の屋台の電飾だけが光っている幻想的な光景であった。
翌日は有名なアユタヤの遺跡「ワット・マハタート」を観光した。
木の中に埋まっている仏像や、巨大な寝仏像を見た。
観光が終わり、駅に向かうために白タクをつかまえたら、途中で「ガソリン切れ」になってしまい、我々は路上でしばしガソリンを取りに行った運ちゃんを待った。
目の前には、置き去りにされたボロ車があった。
なんとか帰りの汽車に乗ってバンコクに帰った。
翌日、次はまたどこかに行くらしい。
朝一でまたまた屋台の極上「ぶっかけ飯」を食べて、バスに乗った。
バスは45分ほど走り、港の近くに着いた。
そこから小さな船に乗って30分ほどすると「島」に着いた。
島は完全にジャングルであったが、そこに四駆のトラックが止まっており、その「荷台」に我々は乗った。
ジャングルをかき分け、時折樹々の枝が顔にぶつかりそうになるのを避けながら、車は突き進んでいた。
激しい山道の揺れにいい加減疲れてくると、ジャングルが抜けてビーチが見えてきた。
そして、海沿いの一軒家の「バンガロー」にチェックインした。
どうやらこの島は「コサメット」というらしい。
我々はバンガローのキングサイズのベッドに三人で川の字になって寝た。
翌日は狂ったような良い天気である。
我々はビーチへと繰り出し、森田公子はシュノーケリング、
私とコヤマは海の中で波にもまれながら「人名しりとり」に勤しんだ。
人名しりとりの佳境で、コヤマは「いとしこいし~!」と叫びながら波間に消えて行った。
人名しりとりはそこで終わった。
夕方になると、地元の人々がぞろぞろと海に入ってくる。
地元民は「強すぎる太陽」を避け、夕暮れの時間帯から海水浴をするのだ。
夕陽に照らされ、煌めく黄金色の逆光の中で海遊びする地元の子供たちの姿を我々は眺めた。
日が暮れた後、夜はビーチの、ほぼ波打ち際に建てられた掘っ立て小屋のバーに行き、波の音を間近に聞きながらメコン・ウィスキーを呑んだ。
「人生美味い酒ベスト10」にランクインする素晴らしい時間であった。
そして再びバンガローに戻り、また三人川の字になって寝た。
我々はこの島で三日間過ごした。
もしかしたら、
この時が「人生で一番幸せな時間」だったのかもしれない。
(つづく)
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