無の境地 〜メンタルを病んだ末に得たもの〜
習慣化には、億劫な気持ちをどう自動的に対処するかが重要で、そのための"無の境地"について今日は解説します。
前回までの記事はこちら。
メンタル不調で仕事を休んでいる(あるいは無職)という人以外は、
嫌々ながらも仕事に行く
という習慣を日常的にこなしているので、自信を持って、それと同じように体を動かせばたいていのことは習慣化できるはずです。
今日のパートは、じゃあメンタル不調か何かで、億劫ながらも仕事に行くという習慣がない人はどうするんだという内容です。
さてこのブログでは度々書いていますが、僕は長年のメンタル不調で、つい最近まで2年半も仕事を休んでいましたが、先月から復職を果たし、仕事もジムも週5で通えています。
そこには、メンタルを病んだ先に行き着いた、無の境地があるように感じています。
無の境地というのは、悲しいとか辛いとか、そういった感情が死んだようなもので、抑うつ症状の典型例の一つと言えます。
実際、復職前に通ったプログラムなどで鬱の症状あれこれを見た時、真っ先に浮かんだのは
「こんなん誰でも抱えて生きて(仕事して)んじゃないの??」
「これが鬱なら僕ぁ幼少期から鬱だな」
でした。
そんな長年の抑うつを経て、しかし得たものもあると今では思います。
それが、無の境地。
すなわち、悲しいとか辛いとかいう感情がありふれすぎた結果、ネガティブ感情にフタがされているような状態です。
慣れみたいなものと思ってもらったら分かりやすいかもしれませんし、心理学用語で言えば乖離とか健忘とかいう状態です。
ですから病気なわけで、当然治すべきものなのですが、治った後も、あの時ああだったという記憶は残りますね。
それを僕は活用しているようなものです。
つまり、自分の気持ちに向き合わずフタをする術を、抑うつ的に過ごす人生の中で身につけてきたということです。
先ほどこれは病気だと言いました。
もちろん病気なのですが、これは自己防衛反応でもあります。
すなわち、
「こんなにしょっちゅう傷ついてばかりいたら身も心も持たない!」
ということで感情のスイッチをOFFにして自分の心を守ろうとするのです。
この、自分で自分を守ろうとしてくれていた自己防衛機構に気付いた時、それをとても愛おしく思い、涙が溢れ、初めて自分で自分を大切にしようと思ったのでした。
このように、鬱そのものはもちろんネガティブな経験だったものの、行き着く所まで行った先には、感情をOFFにする防衛機構があり、今はそれを上手く活用して、仕事上がりにジム行くかそのまま帰るか迷ったり億劫だなと感じたりするまでもなく、無の状態で身体が勝手にジムに向かうような日々になって来ました。
ですので、今もしメンタルを病んでいる方も、行き着く所まで行ったら行ったで、得られるものがあるかもしれませんよ。
行き着く所というと究極は自殺みたいな話になってしまいますが、そこだけ死守していれば人生何とかなると思います。
もし、そう思えないぐらい病んでる方は、カウンセリングサービスもやってますのでご連絡下さい。