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仕事にも趣味にも遊びは必要だ。

遊びとは何だろう。それは娯楽でもあるし、余裕でもあるけど、何よりも主体的で、能動的である事が遊びの大原則だ。

本書は、ホイジンガ著書「ホモ・ルーデンス」を読んだ為末大さんが、現役アスリート時代の実体験を元に、「遊び」とは何なのかについて書いている。

遊びと聞けば、楽しそうなものと感じるが、仕事や勉強においての遊びは、サボりや怠けのようにも聞こえてしまう。しかし、そういった仕事や勉強という制約の多い環境下にこそ、遊びは大事なのだ。

先ほども書いたように、遊びは能動的なものでなければいけない。誰かにやらされているならそれは遊びとは言わない。

自ら進んで考え、行動する事で初めて遊びになる。そしてその遊びが、仕事や勉強、趣味においても意識するべきものなのだ。

例えば仕事には一定以上のクオリティが求められるし、何かしら条件も付いてくる。会社に属する以上完全な独壇場で出来る仕事はない。

本人へ遊びの余地を奪ってしまえば、効率的に仕事が回るかもしれない。しかし、本人にはやらされている感覚しかないし、能動的な行動は何一つなく、窮屈で退屈なものになってしまう。

仕事においても遊びがある事によって、本人は選択する余地が生まれるし、結果として自主的に取り組むようになり、やり甲斐や楽しさが生まれてくる。


そしてこれは趣味にも言える。例えばゲーム。

ゲームといえば娯楽の最たるものだが、ゲームに意識的に遊びの感覚を持つ事も大事だ。

敵の倒し方にしろ、ストーリーの進め方にしろ、ゲーム側は真っ先に最善のやり方を推奨してくる。そのやり方に乗っ取れば、最低限の楽しさは保証される。しかし、同時にそのやり方に縛られてしまう。結果、1つのやり方に執着し、娯楽を楽しんでいる感覚がどんどん薄れていってしまう。

ゲームにおいても、ゲーム側が見せていないだけで、まだ知らない遊び方があるかもしれない。そこを探求する楽しさは遊びだし、より進んで遊んでいる感覚を味わえる。

そういった場合、同じゲームをプレイしていても、進行度合いに差が生まれてくる。遊び自体、何かしらの利益や成果は生まれない。基本的に遊ぶ目的は遊びたいからで、何かが欲しいから遊んでる時点で、報酬という目的に縛られてしまい遊びがなくなってしまう。心の底から遊びたいなら、遊びたいから遊ぶべきだ。

利益を求める為に遊ぶのは良いが、遊ぶ事に利益を求めてはいけない。目的と手段が逆転してしまう。


仕事においても、趣味においても遊びはあるからこそ初めて楽しいものになるし、遊ぶからこそ物事の習得も速くなる。

遊びとは、「こうやった方がもっと良くなるんじゃないか?」「ここを改善すればもっと面白くなるんじゃないか?」と自分から進んで動いていく事であり、物事をこなす上で欠かせない要素なのだ。

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