海外より(その2)―プラント・メディスンと、サイケデリックな自己探求
現在、海外にいて、さまざまなシャーマンやサイケデリック・セラピーの研究家/実践家(セラピスト)と交流していると、こちらでは、常識な事柄(ものの見方)が、日本では、スッポリ抜け落ちて、勘違いしている人(記事)が多いこともあらためて痛感されましたので、少し速報的に書いてみたいと思います。
今回は、その第2弾となります。
さて、サイケデリックなプラント・メディスン(アヤワスカ、マジック・マッシュルーム、ペヨーテ等)と言えば、元々は、シャーマニズムの伝統の中で使われてきたものです。また、現在でも、本質的/基本的には、そのような使われ方をしております。
しかし、そのようなサイケデリック・メディスンが、本来のシャーマニズム的な精神探求の枠組みを離れて、単なる興味本位な「ドラッグ」として扱われている場面も、多くあります。
そのことで、色々な問題や事故、事件が生じているとも言えるのです。
今回は、そのあたりの事情(メディスンとドラッグの違い)を、見ていきたいと思います。
サイケデリックなプラント・メディスンを使う、聖なるセレモニー(儀式)の中では、さまざまなメディスンの種類/部族を超えて、共通して出てくる言葉がいくつかあります。
「意図」「集中」「コネクト(つながる)」「浄化」などです。
これは、シャーマニズムの基本的な姿勢と関連した言葉です。
そもそも、シャーマニズムとは、世界中の文化に広く見られる、自分を超えたもの(スピリット)につながるための、古来からの方法論です。
そして、その姿勢(アティチュード)は、近代主義的な世界観、つまり、先進国の私たち現代人がそうであるような「人間中心主義」とは、遠く離れたものです。
シャーマニズムは、人間も、他の自然の存在と同等であるような、水平的な世界観です。
人間も(脇)役のひとつであるような、宇宙的なひろがりをもった世界観です。
また、ある意味、スピリット中心主義 spirit centered とも言えます。
そして、そのような自分を超えたもの(スピリット)につながるために、「実践的な取り組み法」として、「意図 intention」をもって、自分自身に「集中」し、「つながり」、「浄化する」ことが、必要となっているのです。
なぜなら、自分の心(心身)を通じてこそ、私たちは、大いなるスピリットに「つながる」ことが可能になるからです。
「心の通り道」を通じずに、スピリットにつながることはできないのです。
自分の心につながることと、スピリットにつながることは、地続きで存在しているのです。
そのため、日々、自分の心身を「浄化」し、その「通り」を良くしておく必要があるのです。
「通り道」にゴミが詰まった状態で、真正なスピリットにつながることはできないからです。
そのように、自分自身を媒介 medium、通り道と見なす、シャーマニズムの姿勢については、典型的なものとして、自らを中空の「パイプ」と見なす、北米のメディスン・マン/シャーマンの考え方があります。
このようなシャーマニズムの姿勢の中に、プラント・メディスンは、存在しているのです。
しばしば、プラント・メディスンは、「スピリット・ヘルパー」とも呼ばれます。
プラント・メディスンは、ヘルパーであり、私たちをスピリット(的なもの)へとつないでくれるために、多面的に働いてくれるものです。
そのため、それらは、大いなる敬意をもって、敬われているのです。
しかし、それはあくまで、ヘルパーでしかないという意味でもあります。
私たち自身が、「意図 intention」をきちんと持って、メディスンの助けを借りて、自分を浄化し、スピリットにつながることが前提となっているのです。
そのため、「自分の心に向き合う」ことを行なっていくのです。
メディスンを使って、自分に集中して、自分の人生や心を深く堀っていき、深層の囚われや苦痛を解放していくことを行なうのです。
そのことを通して、浄化を進めるのです。
そして、プラント・メディスンは、その点において、非常に強力に作用してくれるものなのです。
私たちを、深い変性意識状態に導き、日常意識では理解できない、リアリティの多次元的・異次元的な真相を教えてくれるからです。
ただそれは、決して、お気楽なものだけではないのです。
私たちに、見たくないものを、剥き出しで見せつけてくる側面も持っているからです。
しかし、それらは、他にないレベルで、私たちの心身に未知の変容を起こし、未知の領域に開いてくれるものなのです。
さて、以上見てきたような、「プラント・メディスンに対する敬意や取り組み姿勢」を想像してみると、一般に「ドラッグ」を使う現代人の心理とは、全然違うものであることがわかるかと思います。
むしろ、真逆にあると言ってよいでしょう。
というのも、現代人が、通常、ドラッグを使う理由は、自分のエゴにとって、都合の良いこと(快楽や逃避)を求める心理だからです。
そもそも、心理学的に言うと、私たち現代人が、通常、「自分」と見なしているエゴは、「ニセの主体(仮面)」です。
自分が見たくない、自分の「シャドー(影)」の面を抑圧した結果としての「偽りのセルフ・イメージ=仮面」なのです。
自分が見たくない「シャドー(影)」を抑圧するという心理的態度は、私たちが、幼少期の頃、両親の心理的態度を、「無意識的に模倣する」ことで体得する事柄なので、そのことに違和感を持つことはありません。
私たちの抑圧的態度(性格)は、幼少期の頃から、両親の抑圧的態度(性格)を、そのまま「取り込む introjection」ことで作られるのです。
だから、私たちは、「両親に似ている」のです。
「自分は、絶対に親のようにはならない」と反発していても、親に似てしまっているのは、そのような深層の原理のためです。
その結果、私たちは、「自分がそう考えたいと理想化=偽装された主体(ニセの主体」を、自分自身だと思い込むことになっているのです。
これが、私たちの生きづらさや心理的苦痛の原因なのです。
そして、現代社会全体が、そのような近代主義的な抑圧/欺瞞の上に成り立っているので、そのことは、ほとんど理解されていません。
このことは、別の記事でも少し触れました。
さて、いわゆる「ドラッグ」というものが使われるときは、このようなニセモノのエゴにとって、都合のよい快楽や逃避のために使われているのです。
そのため、現代の欺瞞社会の中で、ドラッグが蔓延するのは、ある意味、必然とも言えるのです。
日々の嘘の上塗りのために、ドラッグが、楽になるツールだからです。
実は、これは、精神科や心療内科で処方される薬も、本質的には変わらない面でもあると言えるのです。
しかし一方、真のシャーマニズムやプラント・メディスンは、反エゴ的です。
正しい姿勢で、プラント・メディスンに取り組むと、日々ごまかして、抑圧している「シャドー(影)」と向き合うことにもなるからです。
逃避的ではなく、自分の中の見たくない面も、見せつけられてくるからです。
人生でごまかしてきた、厳しい側面も、色々と噴出してくるのです。
ある種、夢魔的な体験となるのです。
エゴ=ニセの主体(仮面)自体も、浄められるべきもの、「浄化」の対象となるからです。
しかし、シャドー(影)とニセの主体(仮面)のワンセット(両方)が、浄化され、乗り越えられていくことで、私たちは、「自分を超えたもの(スピリット)」につながることができるのです。
ニセのエゴが詰まった状態で、私たちは、真正なスピリットにつながることはできないからです。
(ニセのエゴが詰まった状態だと、この手の体験談によく見られる、幼稚なエゴが投影された、陳腐で、妄想的・空想的なファンタジーが生まれてしまうのです。そういうニセの情報を見抜くのも、必要なスキルです)
また、興味本位でアヤワスカなどを体験して、怖ろしい体験や悲惨な事態になってしまうのも、ある意味、必然なプロセスであるとも言えるのです。
しかし、それも、大枠では、「浄化」であると言えるのです。
そのため、プラント・メディスンに興味を持ち、その力を借りて、自己変容を望むには、普段から、ある程度、自分の心に向き合っていて、それを深堀りしていることが必要なのです。
プラント・メディスンは、欺瞞的で、逃避的なドラッグではないからです。
然るべき敬意をもって、あつかわれるべきものなのです。
正しい意図と願いを持って、真摯に探求を進めていけば、実際に、「本物のシャーマン」、(あまたの商業シャーマンではない)稀少な、全身全霊のシャーマンに出会って、これらが意味する、鬼気迫るような、本当の意味合いを実感することもできるでしょう。
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