マガジンのカバー画像

小説

18
今までに書いた小説まとめ
運営しているクリエイター

記事一覧

【創作大賞2024】終末、きみの名を 第一話

「起きて、――」  声がした。優しい、どこか懐かしい声だった。誰を呼んでいたのかはわからない。僕ではなかったのかもしれない。けれど僕にはその声がどうにも、さみしくて悲しくて泣いているように聞こえて、無視することはできなかった。  たとえその声が呼んだのが僕ではなかったのだとしても、僕はその声に揺り起こされたのだ。  まぶたを開けると、世界の明るさにわずかに目がくらんだ。何度か瞬きを繰り返して完全に目を開ける。部屋の照明はついておらず、仄暗い。しかし窓から差し込んだ陽光が

【創作大賞2024】アンチロマンス 第一話

 陽香の手からコップがすべり落ちた。すべり落ちそうになったところを、俺がすんでで受け止めた。中に入っているのは韓国焼酎のマスカットフレーバーだ。アルコール度数が低いとは言えないそいつを俺の部屋にぶちまけられて、ラグに酒のにおいをこびりつかせるのは御免だった。 「眠いんだろ、もう寝ろ」  受け止めたコップをテーブルの上に置きながら言う。陽香はうとうと船をこぎながら「まだ飲める」と答えた。どの口が言っているんだか。 「飲めないっての。俺のベッド貸すから。明日土曜だし泊まって

トゥーランドットははじめになんと言ったんだっけ。【小説】

 トゥーランドットははじめになんと言ったんだっけ。  薄暗い部屋の中で、あたしはあんたの首筋に頬を埋めて、あんたの背骨を指でなぞった。長い髪をかき分け、尾骶骨まで。つぶれた胸の奥で、あんたの心臓がどく、どく、言っていた。 「ねえ、くすぐったいよ」  あんたは歌うように笑った。ナイチンゲールみたいな声だった。あたしはそれが愛しくって、もっと啼いてほしくて、首筋の動脈を喰んだ。そこもどく、どく、言っていた。  そうだ。トゥーランドットは二言目にはこう言った。炎の如く燃え上

ガラスの破片ひとつ

「人生なんて苦しいばっかよ。あたしたち苦しむために生まれてきたんだわ。世界はあんまり混沌としていて理不尽だし、人はこんなにも嘘つきで愚かしい。ゴミだめみたいな人生よ。それでも生きるの。どうしてだか分かる? ゴミだめの中に、きらきら光るガラスの破片ひとつ見つけたから。カラーセロハンの切れ端、砕けた貝殻、おもちゃのイミテーションダイヤ。そういったものを見つけては拾い、見つけては拾いしてあたしたち生きてる。そうして死ぬときには、そんな安っぽく光るゴミたちで両手がいっぱいになってりゃ

【小説】誰が青い鳥殺したの

 足音が聞こえる。  私は振り返らなかった。振り返りたくなかった。ただぼんやりと窓際に立って、目の前の光景を眺めていた。手を伸ばすことはしなかった。虚しいだけだ。 「残念だったね」  声が聞こえた。私はようやく振り返る。仄暗い部屋の向こうであんたが私を見ていた。その視線が動いて、私の隣にあるものを捉える。違う、ないものを、捉える。 「逃げたのか」 「さあ」  私は短く答えて視線を戻した。真鍮の鳥籠が窓から差し込む光を反射して鈍く光る。昇ったばかりの朝日は、空の遠くで昨

【小説】駈込み産声

 べつに怒ってない、怒ってないってば、ほんとに。はるこちゃん知ってるじゃん、あたしが全然怒んないの。  ちがうよ優しいわけじゃない。あたし、怒るのがへたくそなんだと思う。通りすがりのおじいさんに杖でぶたれても怒れなかった。きっとおじいさんも大変なんだなあって思うだけ。お姉ちゃんのカレシが浮気してても怒れなかった。男の人って多分そういうもんなんだろうなって思って。友だちが待ち合わせに一時間寝坊したときも、課長のミスであたしの一週間分の仕事のデータが消えたときも、べつに怒ろうな

【小説】彼女とKとどん兵衛と(幼馴染の推しが炎上した話)

 インターホンが鳴ったのは、夕食のどん兵衛にお湯を注いだときだった。僕はまずいな、と思った。どん兵衛の調理所要時間は5分だ。メーカーが5分と言っているのだから5分なのである。しかし来客によってはその規定時間をオーバーすることになるかもしれない。  来客、どうか宅配であれ。あるいはすぐに断れる宗教の勧誘とかでもいい。僕はそういうのを断るのをためらわないタチだ。NHKの集金人でもかまわない。なにせ僕の1Kにはテレビがないので、やりとりはたったの一往復で終わる。「テレビはございま

【小説】海の沈黙

 冷たい。  足首にゆらゆらと光がちらつく。光って、一瞬あとに消える。暗く染まりかけた世界に浮かんだり、沈んだり。足を振り上げると、ぱしゃりとしぶきが上がった。きらきら、儚い。  一歩、踏み出す。足裏で踏みしめる砂の感触はやわい。でも沈み込んで僕を飲み込んだりはしない。たしかに僕の体重を支えている。砂も波も、空も、そこにあるだけだ。  僕もまた、ここにいるだけ。  もう少し深いところまで行ってみようか。そうしたら何か変わるかもしれない。たとえば僕の感傷も、海に溶けてす

【小説】ダンサーズ・オン・ハイパーボラ

 練習室にあかりがついていて、それで私はああ、あんただと思った。スタジオの合鍵を持っているのは私かあんただ。先生はまだ幼い息子さんがいるから夜中にスタジオに来るなんてことはない。だから私より先にここへ来てあかりをつけるなんてことができるのは、あんたしかいないのだ。  ドアを開く。控えめな音量の音楽が私の鼓膜を揺らした。同時に、鏡の前で踊り続けるあんたの姿が視界に飛び込んでくる。  あんたは私が入ってきたのを横目で見て、けれど動きは止めなかった。ゆったりとした音楽に合わせて

【小説】Permission to Dance(あるいは黒鳥)

 鍵を回すとかちゃりと音がした。私は留美と顔を見合わせる。にっと、その口角が上がった。扉を開けて、スタジオの中へ足を踏み入れる。真っ暗なそこをスマホのライトを頼りに進んで、お稽古場のドアを開けた。手を伸ばしてぱちりと電気をつける。暗闇が明るく反転した。  そこは、10年前から変わらない私たちのお稽古場だった。 「嘘、変わんない」  留美が声を上げた。靴を脱ぎ捨て、どさりと鞄を投げ出してお稽古場の真ん中へと躍り出る。くるくると回ってきゃいきゃい声を上げている。私も靴を脱ぎ

【小説】プリマ・シンデレラ

「トウシューズが合ってないんだよ」  朝香ちゃんはあたしのポアントを見て言った。誰もいない、レッスン前のお稽古場。先生よりも早く来て自主練していたら、よりにもよって彼女に見つかるなんて。あたしはバーを掴んだままゆっくりかかとを落としてア・テールに戻る。朝香ちゃんは顔をあげてあたしの目を見た。 「佳奈美ちゃん、何履いてるの」 「シンデレラだよ」  あなたと同じトウシューズ。その言葉は飲み込んだ。朝香ちゃんは「もう一回ポアントで立ってみて」とあたしに言う。あたしは言われるが

【小説】沐浴

 失うものの多さに、ときどきめまいがする。  両の腕で大切に抱えていたと思っていたものは、気づけばするりと滑り落ちていた。何も残らない。ここにあった、確かに抱えていたという記憶さえいつか薄れて消えてしまう。かつてはひとつ失うごとに、ほろほろ涙をこぼしたけれど。今はもう失うことに慣れてしまって、ときどき痛みのようなめまいを覚えるだけだ。 「今日は何をなくしたの、ぼうや」  ぴしゃん、と水面をたたく音。僕は水に浮かんだ黒髪が艶めいて揺れる様を眺めながら、つぶやくように言った

【小説】そのコーヒーは恋の味などしなかった

 ぱたりぱたりと、思い出したように雨は窓を叩いた。ほの暗い部屋に水のにおいが漂っている。私は一度席から立ちあがって、壁際まで歩いていって電気のスイッチを二つ同時に押した。ぱっと、研究室が明るく照らされる。振り向くと、ちょっと驚いたような二つの目玉が私を見ていた。すぐにそれは笑みに変わる。 「ああ、ごめんなさい。暗かったよね、ありがとう」 「別に、私はいいんですけど。暗くて困るの先生じゃないですか」  答えて、けれど私は元の席には戻らなかった。なんとなく壁際に立ったまま、先

【小説】夏夢

「どこまで行かれるんです?」  夏風が吹き抜ける。じわりと汗のにじむ炎天下、電車の到着を告げるメロディーががらんどうのホームに鳴り響いた。 「どこまででも」  セーラー服の少女は、大きなスクールバッグを抱えなおして婦人の問いに答える。 「行けるところまで」  ざあっと滑り込んできた電車の音が、少女の声を騒がしくかき消した。  *  何か考えがあったわけじゃない。ただすべて嫌になった。  真っ白なノートの上、私はひたすら益にもならない通分を繰り返す。黒い筆跡がゆ