【小説】プリマ・シンデレラ
「トウシューズが合ってないんだよ」
朝香ちゃんはあたしのポアントを見て言った。誰もいない、レッスン前のお稽古場。先生よりも早く来て自主練していたら、よりにもよって彼女に見つかるなんて。あたしはバーを掴んだままゆっくりかかとを落としてア・テールに戻る。朝香ちゃんは顔をあげてあたしの目を見た。
「佳奈美ちゃん、何履いてるの」
「シンデレラだよ」
あなたと同じトウシューズ。その言葉は飲み込んだ。朝香ちゃんは「もう一回ポアントで立ってみて」とあたしに言う。あたしは言われるがまま、五番からかかとをあげてトウで立って見せた。
「足の形が合ってないんだと思う。甲がきれいに見えないの」
朝香ちゃんが視線を伏せる。あたしはそのまつげを見ていた。長いまつげが伏せられて、絹糸みたいに輝くのを見ていた。
「シンデレラはボックスが厚めだから、もう少し薄めのほうがいいかも。硬さも合ってないかな」
「朝香ちゃんはすごいね。フィッターまでできるの」
すとんとア・テールに戻って言う。彼女は「真似事だけどね」とはにかんだ。下がった眉がかわいかった。恵まれた容姿に恵まれた体躯。あたしたちが誇る我がスタジオのプリマ・バレリーナ。コンクールにも入賞する実力の持ち主で、将来はプロのダンサーになるのだと誰もが疑わなかった。
「前は何履いてたの?」
「ギャンバ」
「そっちのほうが合ってたんじゃない? どうしてシンデレラに変えたの」
だって、あなたがシンデレラを履いてたから。やっぱりそれは言えなかった。曖昧に笑って、「何となく」でごまかす。
「じゃあもう一回ギャンバに戻してもいいんじゃないかな。それか最近はやりのゲイナー試してみるとか」
はやりの、というのはうちのバレエスタジオ内での小さなブームだ。ゲイナー・ミンデンはソールが形状記憶だから力を入れなくても楽にポアントで立ててしまうというので、気づけば同期はみんなゲイナーだった。日本製のトウシューズの二倍の値段がするのが玉に瑕だけれど。
「うん、そうだね。またフィッティング行ってみる」
「なら早いほうがいいよ。発表会まであと三か月だし」
トウシューズは慣らすのに時間がかかる。あたしは足が強いほうじゃないから、二か月は見ておいたほうがいい。朝香ちゃんなら、二、三回履いただけでもう自分のものにしてしまうのだけど。
あたしはまたそうだね、とうなずいた。発表会に履き慣れないトウシューズで出るわけにはいかないから。でも、と思わず本音が漏れる。
「あたしみたいなコール・ドのことなんて、誰も見ないと思うけど」
バレエダンサーは二つに区分される。主役やヴァリエーションを踊るソリストと、群舞を踊るコール・ド・バレエだ。あたしは所詮コール・ド。朝香ちゃんみたいなプリマとは違う。
コール・ドがどんなトウシューズを履いていたって。
「佳奈美ちゃん」
思いのほか強い語調で名を呼ばれ、肩が震えた。顔を上げると真剣な表情の朝香ちゃんと目が合う。
「分かってると思うけど、バレエの神髄はコール・ドだよ。プリマがどんな踊りを見せたって、コール・ドが一人でも下手なら全部だめになる」
「あ、その、ごめんなさい」
コール・ドとしての覚悟の無さを責められているようで、口から謝罪が滑り出る。けれどごめんなさい、と謝りながら、同時にあきらめてもいた。分からないだろうな、と思ったから。
朝香ちゃんの言ったことは正論だったけれどきれいごとだ。コール・ドは初めから完璧であることが求められる。失敗すれば批判されるけど、いい踊りをしても褒められることはない。ソリストとは根本的に違うのだ。結局観客が見るのはソリスト。コール・ドはその他大勢としてしか記憶されない。
だから、根っからのプリマである彼女にはあたしの気持ちなんて分かるわけない。
朝香ちゃんはじっとあたしを見ていたけれど、やがてふっと表情をゆるめた。
「見てるよ。佳奈美ちゃんのこと、私が見てる。だから気づいたでしょ、トウシューズ合ってないことにも」
かっと全身の体温が上がるのが分かった。あたしは視線を伏せて、「たまたまでしょ」と口走った。こんなことが言いたいわけじゃなかったけれど、本心でもあった。たまたまレッスン前のお稽古場で鉢合わせたから気づいただけ。そんなの、「見てる」のうちに入らない。
そう自分に言い聞かせようとしたのも、あったかもしれない。
けれど朝香ちゃんは首を横に振った。
「でも私が気づいたのは佳奈美ちゃんが一人で自主練してたからでしょ。ならそれはたまたまじゃないよ。佳奈美ちゃんが頑張ってるから気づいたの」
手のひらにじっとりと汗が滲んだ。あたしはそれを握りしめ、視線を伏せたまま言う。
「頑張ってたら、あたしのこと見ててくれるの」
「見てるよ。だからコール・ドなんてって言わないで」
あたしは両手の強張りを解く。ため息がこぼれた。
「朝香ちゃんはすごいね」
上手いだけじゃなくて優しい。優しいだけじゃなくて正しい。光の中にいる人だ。スポットライトがよく似合う。万雷の拍手がよく似合う。
届かない、絶対に。
「ありがと、朝香ちゃん。トウシューズ、変えるね」
彼女は笑顔でうなずいた。それからぺたりとフロアに腰を下ろしストレッチを始める。あたしも再びバーを掴み、アダージオを再開した。シュ・スで立つとトウシューズの硬い感触が指先に触れる。まだ四ヶ月も履いていない。あたしのシンデレラ。きっと今日でお別れだ。
シンデレラは甲が高くて足が強い人にしか履きこなせない。あたしと彼女ではもともと持っているものが違うのだ。何もかも恵まれた彼女。平凡なコール・ドのあたし。あたしにはシンデレラは似合わない。
ゲイナー・ミンデンなんて履きたくなかった。履けばたしかに形状記憶できれいに立てる。けれどその代わりに自分で甲を出す癖がつかなくなって、足は弱くなる。トウシューズ任せのダンサーになんてなりたくない。そんなダンサーだと、彼女に思われたくない。
彼女にずっと見ていてほしいから。
追いつきたくて、届かなくて、もがき続けて、けれど彼女はそんなあたしのことを見ていると言う。あたしの気持ちなんて、一片も理解できないくせに。
シュ・スから右脚を後ろにすっとあげて、アラベスク。バーを離してバランスを取れば、虚しく三秒でふらついてしまう。でもあきらめたくなくて、もう一度同じポーズを取った。右脚は後ろ、左手は横。右手は前へ、視線は遠く。指の先を見つめるように。
届かないものを追いかけるように。