【創作大賞2024】アンチロマンス 第一話
陽香の手からコップがすべり落ちた。すべり落ちそうになったところを、俺がすんでで受け止めた。中に入っているのは韓国焼酎のマスカットフレーバーだ。アルコール度数が低いとは言えないそいつを俺の部屋にぶちまけられて、ラグに酒のにおいをこびりつかせるのは御免だった。
「眠いんだろ、もう寝ろ」
受け止めたコップをテーブルの上に置きながら言う。陽香はうとうと船をこぎながら「まだ飲める」と答えた。どの口が言っているんだか。
「飲めないっての。俺のベッド貸すから。明日土曜だし泊まってけよ」
「なんで。飲める。あともう一本買ってきたのあるし」
「うちに置いとけばいいだろ。また今度飲めよ」
「今飲みたい」
駄々をこねる子どもみたいに言って、陽香はまたコップに手を伸ばした。そしてそいつをがっしと掴んで、一気に口元でかたむける。透明の、きらきら光る液体が陽香の唇の中へ吸い込まれていった。
「やけ酒に付き合わされるこっちの身にもなれよな」
「付き合ってなんて言えるの和斗しかいないし」
「付き合ってくれそうな人を自分から切ってんだろ、おまえは」
「だってえ」と甘ったれた声で陽香は泣きごとを言った。「だってじゃない」と俺は手を伸ばす。ぐずぐず言っている陽香の額を指ではじくと、陽香は大して痛くもなかったくせに大げさに声を上げた。
「自分から彼氏振っておいて。何がやけ酒だよ」
ため息と一緒にこぼれ落ちた俺の言葉に、陽香はまた涙をあふれさせた。
いつもそうだ。自分勝手な女。ひどい女。陽香が恋人と長続きした試しはなかった。付き合って三カ月もすれば限界が来る。そうして陽香は相手の手を振り払ってしまう。
はじめて陽香に恋人ができたのは十年ほど前。高校のころだった。
「陽香って、好きな人いないの」
たしかそんなことを言ったと思う。きっかけは、クラスの男子が隣のクラスの女子と付き合い始めたとか、そんな今となってはどうでもいいことだった。放課後の教室は誰もいなくて、こんなくだらない話をするにはうってつけだった。
「いないよ。なんで」
陽香は自分の席に座って、塾の宿題かなにかに手を付けていたと思う。俺は陽香の隣の席に横向きに腰かけてその宿題を手伝ってやっていた。いつものことだった。いつもと同じように管楽器の音が初夏の風に乗ってかすかに聞こえた。俺は楽器はからきしだから、それがトランペットなのかホルンなのかはまったくわからなかった。
「べつに。おまえとは腐れ縁だけど、そういやおまえから恋愛相談とか受けたことねえなあって」
「ああ、まあ。でもそれ言うなら和斗もじゃん。わたし和斗の恋バナ聞いたことない。和斗は好きな人いないの」
そのとき音楽室から聞こえる管楽器が、俺でもわかるくらいはっきりと音を外した。俺はそれに気を取られて一瞬言葉に詰まった。その隙を陽香は自由に解釈したようだった。
「え、いるの?」
大きく目を見開いて陽香が言う。今から否定するのも嘘っぽいなと思って、俺は「だったらなんだよ」と答えた。半分はヤケ、もう半分は、打算もあった。
「いや、その。だってわたし、聞いたことないし」
「言ったことねえもん」
「なんで教えてくんなかったの」
「逆になんで教えないとだめなんだよ」
陽香は唇を開いて、そこで固まった。それからゆっくり口を閉じ、むにゃむにゃと動かしてから小さな声で「そだね」と言う。
「そっかあ、それで和斗、告白ぜんぶ断っちゃったんだ」
突然の言葉に俺はえっ、と声を上げてしまう。
「なんでおまえが知ってんの」
「有名だよ? さえちゃんでしょ、軽井先輩でしょ、あと後輩の、なんて子だっけ、ショートカットの女の子とか。ほかにもいたよね?」
実際ほかにもいたけれど、俺はうんとは言わなかった。「さあ、忘れた」とうまくもないごまかしを言う。あまり陽香に聞かれたい話でもなかったから。
「まあいいけど。一途だね、和斗」
ちいさく笑って陽香が言う。正直に言ってうまい笑顔じゃなかった。陽香もそれがわかったのか、次の瞬間には笑顔を引っ込める。そしてぽつりと、一言。
「好きな人、いるんだ」
そう独り言のように言う陽香の声がどことなくさみしげだったから、俺は唾をのんだ。それを悟られないようにいつも通りの声で「文句あんの」と悪態をつく。
「ないよ。ないけどさあ。なんかわたしも恋してみたいなって思っただけ」
ペンを置いて陽香が言う。もう宿題にはあまり気が向かないようだった。俺は手のひらに汗がにじむのを感じながら言った。
「すればいいじゃん」
苦笑とともに陽香がこちらを見た。「どうやって」と彼女が言う。
「とりあえず誰かと付き合ってみるとかさ」
「好きじゃない人と付き合うの?」
うろんな目で陽香が言う。俺は一瞬ひるんで、すぐに言い返した。
「みんなそんなもんだろ。付き合ってるうちに好きになってくなんて珍しい話じゃないと思うけど」
ふうん、と陽香は納得していないような顔で視線を反らした。
「じゃ、さ。たとえば誰と? 和斗的には誰がいいと思う」
どく、と心臓が大きく鳴る。どく、どくと鳴って俺を急かす。言え、言うんだ。けれど声を出そうとして、口の中がからからに乾いているのに気づいた。そしてその一瞬の隙をつくように、脳内にさっきの陽香の声がこだました。
――好きじゃない人と付き合うの?
理解できないものを見るような、不純なものを見るようなその目がにわかに俺に刺さった。付き合っているうちに好きになっていく。珍しい話じゃない。俺のまわりでだってそんな奴は何人かいた。だから陽香だって。そう思った。思っていた。
けれどもし、そうならなかったら。
さっと冷静さが戻ってくる。拍動はなりを潜めて、代わりに胃の奥のほうがすっと冷えた。俺はへらりと笑って、「知らないよ」と言った。
「そんなことまで俺に聞くなよな」
「そうだけどさあ」
陽香は不自然な俺の間を不思議に思う様子もなく、ぐう、と机に突っ伏した。それから小声でつぶやく。
「恋、かあ」
机に伏したまま顔を横に向けて陽香は俺を見ていた。俺は何と言えばいいのかわからなくなって、「はやく宿題やったら」とだけ言った。
それから一か月も経たなかったと思う。陽香は隣のクラスの男子と「お付き合い」を始めて、そして一か月で別れた。告白したのも振ったのも陽香だった。
今でもときどき思い返す。あのとき陽香の問いに即答できていたら。そうしたらなにか変わっていただろうか、と。
二人目は大学一年生の秋だった。
サークルの先輩だったらしい。俺たちはどちらも京都の大学に通っていたけれど、鴨川を挟んで俺は国立、陽香は私立だった。だから詳しいことは知らない。けれど陽香は、告白された日も、別れた日も、俺を河原町のカラオケに呼び出した。
「触られたら、やだって思うの」
相手を勢いで振ってしまった日の夕方、陽香はメロンソーダで酔っぱらいながら言った。カラオケだというのに歌の一曲も歌わなかった。
「キスされたらこわくなって、それでごめんなさいって言っちゃった」
俺は陽香の隣であきれてアイスティを吸い上げた。陽香は俺の反応など気にも留めずに話し続ける。
「ほんとはさ、手つなぐのもちょっと嫌だったの。でも我慢したんだよ、告白したのは私だから。そんなこと言えるはずないし」
「本当だよ」
あきれにあきれてつい声が出た。すると陽香はみるみる瞳に涙をためてぽろぽろ泣き出した。
「わ、わかってるよお、それくらい」
陽香が服の袖で涙をぬぐおうとするから、俺は鞄からポケットティッシュを取り出して陽香に渡した。まだ鞄の中にストックは大量にある。彼氏と別れたから話を聞いてほしい、と呼び出された時点で必要になるとふんで詰め込んできたのだ。
陽香はティッシュを受け取るとそれを目元に押し当ててひっくひっくと泣き始める。俺はしばらくその背中をなでていた。陽香が盛大な音を立てて鼻をかむのも、目尻のアイラインが剥げていくのも、じっと、黙って見ていた。
ようやくすこし落ち着いたころ、俺は紙くずになったティッシュを持ってきたポリ袋に詰め込みながら言った。
「あのさあ、触られて嫌な相手なんでそもそも告ったの」
「触られるまでは平気だったから」
俺はため息をついて陽香の手を取った。陽香は不思議そうな目で俺を見た。
「これは平気なの」
「なんで? 平気だけど」
心底意味がわからないと言いたげな顔だったから、俺は陽香の手をソファに放り出した。不毛だ。
「誰彼かまわず嫌なわけじゃないんだな」
「だって和斗は和斗じゃん。ていうかわたしべつに接触恐怖症じゃないし」
「そりゃそうだ」
陽香は中学のフォークダンスも組体操も嫌がらなかった。これまで誰かに触られて拒否したのも見たことがない。触られるのが嫌なわけじゃ、ない。
「多分さ、この人わたしのこと好きだなって思うから、嫌になるの」
陽香はメロンソーダをストローでかき混ぜながら言った。
「体の関係を求められるのが嫌ってこと?」
「そうじゃないと思う。宮本くんのときはべつに体の関係もなにも求められなかったから。でも今と同じで嫌んなった」
宮本というのは陽香の一人目の恋人だ。陽香から告白し、陽香が振った男。今と同じだ。
「宮本くんはさ。最初そんなに私のこと好きじゃなかったんだと思う。嫌いでもなかっただろうけど。告白されたからオッケーした、くらいの気持ちで」
俺はうん、と返事をした。気のない返事だという自覚はあったが、やはりあのころの話を蒸し返されるのは愉快ではなかった。
「でも一か月くらいしたらね、なんとなく宮本くんがわたしに向けてくる視線とか声とかがこわくなって。あ、宮本くんわたしのこと好きなんだなって感じる瞬間があって、隣にいるのが居心地悪くなったの。それで振った」
あいまいなことを言って、陽香はストローをくわえる。緑色の液体がストローを這いあがっていくのを、俺は見ていた。
「おまえは」
「え?」
問いかけると、陽香は首をかしげて俺を見た。俺は繰り返す。
「おまえはどうだったの。好きだった?」
「宮本くんのこと?」
「先輩のことも」
陽香がメロンソーダに視線を落とす。ゆっくり言葉を吟味するみたいに彼女が言った。
「宮本くんのことは、わかんない。嫌いじゃなかったけど、恋でもなかったかも」
宮本のこと「は」と陽香は言った。それだけで次に来る言葉が察せられて嫌になる。だけど自分から聞いたことだから、わかった、もういいとさえぎるのもみっともなくて俺は言葉を飲んだ。
「先輩のことは」
そこまで言って、ぼろ、と陽香の瞳からまた大粒の涙がこぼれ落ちた。俺はあわててティッシュを差し出したけれど陽香は受け取らない。放心したみたいに彼女は泣き続けた。それで俺が陽香の頬をぬぐってやらねばならなかった。
悪いこと聞いた、言わなくていいよ。そう言おうとして、けれど陽香のほうが早かった。
「好きだった。でも駄目だった。わかんない。好きなのになんで?」
まるい瞳で陽香が俺を見た。俺は思わず手を止める。ぼろ、と陽香の頬を涙がすべって、そのまま俺の手の甲に落ちた。
「わたし、わたしのこと好きな人が嫌いなんだと思う」
陽香の言葉が俺の胃の腑の奥に沈んでゆく。不可思議なその言葉を、けれどどうしても追及する気になれなくて、俺は「そっか」とだけ言った。
ようやっと陽香が泣きやんだころアイスティに手を伸ばせば、それはとうにぬるくなっていた。グラスの表面をじっとりと濡らした結露だけが、やけに俺の手のひらには冷たかった。
陽香がやたらと恋愛に精を出すようになったのはそのあとだ。マッチングアプリや街コンを利用し、積極的に恋人を探すようになった。けれど誰も彼も二か月もたなかった。いつだって理由は同じだ。曰く、「この人わたしのこと好きなんだって思ったら、こわくなるの」。
六人目は年下。大学三年のときだ。
電話があったのは真夜中だった。もう日付も変わり、家々の窓からも明かりが消えはじめたころ。そろそろ寝ようとして電気を消したらスマホが光って、その着信の相手が陽香だったから俺はあわてて通話のボタンを押した。
「和斗、たすけて」
もしもしとか、はいとか、そんな一言を言う前に陽香の声が聞こえた。俺は焦って、「陽香、どうした」と言った。言いながら上着をひっつかみ、隣人への配慮も忘れて勢いよく部屋のドアを開けた。
「わ、わたし」
「今どこにいる? すぐに行くから」
「ち、ちが」
陽香はひどく混乱していた。俺は「大丈夫、俺がついてるから」とスマホに向かって語りかけた。しばらくせぐり上げる声が聞こえて、それから深呼吸のような音のあと、「鴨川」と言った。
「賀茂大橋のあたり」
「賀茂大橋な? 五分で行くから、電話切るなよ」
本当は俺の下宿からは十分はかかる場所だったけれど、そんな悠長なことは言いたくなかった。階段を一つとばしで下り、そのまま夜の百万遍へと駆けだした。
陽香は電話で何もしゃべらなかった。何か言われても全力疾走している俺は答えられなかっただろうし、それでよかったのかもしれない。けど俺の不安は膨らむ一方だった。
十一月の京都は冷え込む。走ると身を切るような寒さが全身を苛んだ。走っても走っても体の芯が冷えていて、すこしも熱くはならなかった。実際に何分かかったのかは知らない、けれど俺が着いたとき陽香は賀茂大橋の上で迷子みたいに呆然と立ち尽くしていた。
「陽香」
声をかけると、陽香は俺を見てぼろりと涙をこぼした。どこも怪我はしていなさそうだったから俺はひとまず安心して、その背中をなでた。陽香は俺の肩に顔を押し付けて泣いた。
河合橋に灯った明かりが水面に反射して揺らめいている。昼から夕方にかけては大勢の学生や市民でにぎわうデルタは今は暗闇に沈んでいた。出町柳駅の終電も過ぎて大橋を渡る人もいない。いつもの喧騒が嘘のように、沈黙だけがゆっくりと俺たちのそばを通り過ぎていく。
陽香の下宿は烏丸通より西にある。賀茂大橋からだと二十分以上はかかる距離だ。大橋の近くには遅くまでやっている店も多くはない。こんな時間に、この場所にいる理由が俺にはひとつしか思いつかなかった。
「恋人となんかあったのか」
聞くべきではないのだろうか、と思ったけれど、何もわからないまま彼女を下宿に返すほうが心配だった。
陽香は俺の肩に顔を押し付けたまま、こくこくと二回うなずいた。俺がその顔を見ようとして頭を傾けると、とっさに「見ないで」と声が飛んでくる。
「あのね。あの子が、したいって言ったから、わたし、いいよって言ったの」
そのとき俺は陽香を半ば抱きしめているような自分の体勢を後悔した。いろんな意味でだ。それで彼女を離そうとして身じろいだら、それを何だと思ったのかやはり彼女が「見ないでよ」と言った。だから俺は彼女を腕の中に収めたまま動けなくなった。
「はじめてだから痛かった。それはいいの。問題はそこじゃなくて」
ぐり、と陽香が俺の肩に頭をこすりつけた。
「途中でこわくなったの。痛いのがじゃなくて、好きって言われるのが」
俺は何も言えなかった。ゆっくり、ゆっくり陽香が言葉を選んで話すのを聞いていた。
「あの子がわたしの名前を呼ぶたびに逃げ出したくなって。それがわたしの名前じゃないみたいで気持ち悪くて。好きだって言われたぶんだけ不安になるの。それであの子が寝てからこっそり、逃げてきた」
俺は迷って、けれどもう一度陽香の背中をなでた。同じ男である自分が触れると彼女をこわがらせてしまうのではないかと思ったけれど、彼女はやっぱり抵抗もしなければ怯えもしなかった。
「好きなのに。好きだって言ってほしいのに。ひとつになりたかったのに、なれてうれしいのに、わかんない、なんか違うの」
ぶる、と陽香が体を震わせる。肩口がまた熱くなって、新しい涙が彼女の瞳からあふれたことを知った。俺は何も言わずにその背中をなで続けた。
「あの子が抱いたのって、本当にわたしだったの? わたしの形をした誰かなんじゃないの?」
かちりと、パズルのピースがはまったような感覚があった。
そうか、と思った。やっぱりそうだったんだ。陽香が恋人と長続きしない理由について、俺なりにいろいろ考えてきた。今やっとその理由がはっきりした。そしてやるせなくなった。陽香のことが。それもある。けど一番は、俺自身のことがだ。
この恋が叶いっこないことを知ってしまったから。
「つらかったな」
俺はそれだけ言った。陽香は顔を伏せたまま、ちいさくうめき声をあげた。彼女を可哀そうだと思った。恋人に抱かれて逃げてきた彼女を、じゃない。自分のことをなにもわかっていない彼女を、だ。
陽香が恋人を振ったのは、その一週間後のことだった。
そして十人目が、今。
今度の相手は会社の同僚。付き合って三か月で別れてしまったんだから――それもクリスマスをきっかけに――来週からの出勤は苦痛になること間違いない。けれどやっぱり同情する気にはなれない。俺はつまらない人間だから。
「今度こそうまくいくって思ったのに。ぜんぶうまく進んでたのに」
その「ぜんぶ」に含まれる子細を、あまり深く考えたくはなかった。俺はハイボールの缶を新しく開けながら言う。
「そもそもおまえ、なんでそんな恋愛したいの」
六人目との別れ方を思い出せば、恋愛に恐怖心を抱くようになっていてもおかしくない。それなのに陽香は果敢にも恋人探しを続行した。そのチャレンジ精神が俺にはどうしても理解できない。
「だって」
陽香が上目遣いに俺をにらんだ。それから首をゆるく横に振る。
「なんでもない。和斗に言ってもわかんないと思う」
「なんだよそれ」
俺は多少腹が立って、そして大いに傷ついてハイボールをあおった。けれど陽香はこれ以上この話をする気がないらしかった。視線を空っぽの瓶に投げかけながら言う。
「和斗はさあ、どうやって恋愛してるの。葵さん、大学一年からだからもう五年付き合ってるよね」
「べつに、普通。告白して、オッケーされて、そのまま何も考えず惰性で付き合ってる」
「惰性」
「そう、惰性」
この世で恋愛と呼ばれているものの多くは慣性だ。摩擦や重力がはたらかないかぎりはずるずると続く。そしてこの世界には当然摩擦や重力がありふれているから、大抵はどこかで終わりを迎える。
俺は摩擦が少なくて、陽香は特別大きい。それだけのことだ。
「わかんないよ。どうやったら和斗みたいに恋愛できるの? わたしも同じようにしたいだけなのに」
俺の内心などつゆ知らず、涙をたたえた目で陽香はうなだれた子犬みたいに机に突っ伏した。俺はハイボールを胃の下のほうへと流し込んで、「そうか」と言った。
「なんで駄目になるんだろ」
グラスを指でなぞりながら陽香がひとりごちる。俺はその答えを知っていたけど、教えたくなかったから言わなかった。
陽香は恐れているのだ。自分が嫌われることを。
――わたしのような人間が愛されるはずがない。わたしを愛していると言う人は、本当のわたしを見ていない。虚像を愛しているだけだ。本当のわたしを知れば失望するに違いない。だから本当のわたしを知られる前に、さよならしなきゃいけない。
――だって嫌われたくないから。
これがきっと、陽香も知り得ない陽香の本心だ。
誰かと交際を始めるとき、陽香はたしかにその相手のことが好きなのだ。だからこそ相手と親密になることを恐れてしまう。親密になって「なんだ、こんな女だったのか」って嫌われるのが怖いから。相手のことが好きだから嫌われたくない。嫌われたくないから近づきたくない。それで陽香は、「ごめんなさい」と言ってしまう。
厄介で、難解で、正直に言って理解できない。けれどこれまでの陽香の言動をつなぎ合わせて考察できるのは、そんなところだ。
この認知のゆがみは、きっとセラピーやカウンセリングで改善できるものだ。実際陽香の思考回路は、社交不安障害や回避性パーソナリティ障害の人々のものによく似ている。だから教えてやれば、陽香はその厄介な性癖を治して誰かとまっとうな恋愛ができるようになるのかもしれない。
でも俺は、どうしても教えたくなかった。
だって教えて、まともな恋愛ができるようになったとして、おまえが誰かと幸せに寄り添っているところを俺はどんな気持ちで見たらいい。
おまえが自分の認知のゆがみに気づかないかぎりは、おまえは誰とも長続きしない。おまえは誰のものにもならない。俺はおまえの親友としておまえの一番近いところにいられる。
なぜ陽香がそんなに恋愛に執着するのか、俺にはわからない。はやくあきらめてしまえ、といつも心で毒を吐く。陽香がほかの誰かの隣で笑っているなんて本当は嫌だ。誰かと手をつないでキスをして、からだを捧げているなんて考えたくもない。
恋なんてさっさとあきらめて、俺の親友として一生を終える覚悟をすればいい。
だから俺は、泣きじゃくる陽香になにも言わない。ただ陽香の買い込んできた酒をあおる。陽香が泣きついてくるのが俺であることに、優越を感じながら。