【小説】ダンサーズ・オン・ハイパーボラ
練習室にあかりがついていて、それで私はああ、あんただと思った。スタジオの合鍵を持っているのは私かあんただ。先生はまだ幼い息子さんがいるから夜中にスタジオに来るなんてことはない。だから私より先にここへ来てあかりをつけるなんてことができるのは、あんたしかいないのだ。
ドアを開く。控えめな音量の音楽が私の鼓膜を揺らした。同時に、鏡の前で踊り続けるあんたの姿が視界に飛び込んでくる。
あんたは私が入ってきたのを横目で見て、けれど動きは止めなかった。ゆったりとした音楽に合わせてフロアワークを続けている。私はコートと鞄をぼとりと落として、あんたのダンスを黙って見た。
あんたのダンスは鳥みたいだった。羽が生えているのだ。先生はよく木をイメージして、と言った。大地に根が張っているイメージ。私たちは大地を感じながら踊るのよ、と。でもあんたのダンスは空に飛び立つみたいだった。体重を感じさせない、浮遊するようなダンス。
そんなふうに踊るのはあんただけだった。このスタジオにはたくさんの生徒がいたけど、コンクールでもたくさんのダンサーを目にしたけど、あんたのダンスはあんただけのものだった。コンクールでのあんたの成績はよくなかった。先生もいつも駄目、違う、と言った。もっと大地を感じて、と。
けれど私は、あんたを特別だと思う。
やがて曲が終わって、あんたは動きを止めた。私はぱちぱちと拍手をする。あんたが顔を上げて私を見た。薄く笑う。
「おはよう」
「おはよう。よかったよ」
夜中でも、挨拶するときはおはようございますと言う。私たちの間でのルールだった。どうしてかは知らない。けれど幼いころからのしつけは私たちにとってもう習慣だった。
よかったよ、という言葉にあんたは首を横に振る。
「だめ。まだ分かんないの」
フロアにぺたりと座りこんであんたがため息をつく。季節は秋だったけれど、たっぷり踊ったあんたは額に汗をかいていた。
「ねえ、大地を感じるって、どんな感じ」
するりとあんたの手がフロアをなでる。そのまま脇腹をぺたりとフロアにつけて、じっと深呼吸する。薄っぺらいあんたのおなかが、呼吸に合わせてゆっくり動いた。
私は靴下だけ脱ぎ捨てるとプレイヤーを操作して6番目の曲を流す。それからあんたに近寄って、その手を引き上げた。あんたはされるがままに立ち上がる。私があんたの手を握ったまま足をゆっくり上げると、あんたは焦った声を出した。
「ストレッチしなきゃ」
「やだ。今すぐ踊りたい」
「駄目だよ、ストレッチしてよ」
ストレッチをしないと怪我をする。だからあんたは私にストレッチをさせたがった。けれど私はむにゃむにゃ言っているあんたの口を手で塞いで、足をあんたに絡める。反動をつけてくるりとターンするとあんたは観念したように私に動きを合わせた。私は笑う。
「呼吸を私に合わせて」
次の発表会で私たちが二人で踊る構成。鏡のダンス。私が踊りたいと言った。先生はあなたたち二人では鏡にならないと思うけど、と苦笑した。それでもよかった。
あんたの呼吸が私に重なる。必死で私の呼吸を探って、感じて、少しためらいがちに、おそるおそる合わせている。
「ねえ、こうしたらわかるの。大地の感覚」
「さあ」
「さあって」
困惑気味にあんたが言った。あんたは足をもたつかせたけれど、止まらず踊り続けた。音が止まらなかったから。音が続く限り踊り続ける。それも私たちの間のルールだった。私はあんたの手のひらに手のひらを重ねる。鏡のように。
「大地なんか感じなくていいよ。ただ私を感じて」
本当は私だってわかっている。私たちは鏡にはなれない。
非の打ちどころがないと評される私のダンス。鳥のようなあんたのダンス。私たちはどうあっても重ならない。けれど私はどうしてもあんたに憧れた。専門家がそろって難色を示す、あんたのダンスが好きだった。
あんたと踊っていると私まで浮遊するような気がする。そんなものは錯覚で、やっぱり私は大地に根を張っているのだ。それでも、その錯覚が私には幸せだった。
あんたと踊るのが好きだ。あんたと呼吸を重ねるのが好きだ。あんたと二人、羽が生えたみたいにどこまでも浮かんでいくのが好きだ。
でも、あんたは私を置いて一人で飛んでいってしまうのでしょう。
それが悲しくって虚しくって、私は「私を感じて」と言う。一人で飛んでいかないで。私のとなりにいてよ。私と一緒に踊って。あんたを私という重力で縛りつけるのだ。
飛んでいくあんたが好きで、でも私を置いていってほしくなくて。そんなちぐはぐでずるい私。あんたは知らないでしょうけど。
踊りは止めず、あんたはあきらめたように「いつだって感じてるよ」と言った。私は嬉しくって、いつもより一回転多く回った。