【小説】夏夢
「どこまで行かれるんです?」
夏風が吹き抜ける。じわりと汗のにじむ炎天下、電車の到着を告げるメロディーががらんどうのホームに鳴り響いた。
「どこまででも」
セーラー服の少女は、大きなスクールバッグを抱えなおして婦人の問いに答える。
「行けるところまで」
ざあっと滑り込んできた電車の音が、少女の声を騒がしくかき消した。
*
何か考えがあったわけじゃない。ただすべて嫌になった。
真っ白なノートの上、私はひたすら益にもならない通分を繰り返す。黒い筆跡がゆがんで見えた。問題の解説をする先生の声はなにひとつ耳に入ってこない。リミット エックス アプローチ インフィニティ イコール。うるさいセミの音も窓から差し込むきつい陽光も、全部ぜんぶ煩わしかった。インフィニティ イコール。シャープペンシルの芯がぼきりと折れる。
イコール ゼロ。
ただ、すべて嫌になった。
*
窓の外を背の高い草が流れていく。代わり映えしない景色がどこまで続くのか、少女は知らない。
スクールバッグひとつしか持たない少女は、窓際に身を寄せて呆然と外を見ていた。がたごと揺れる電車はまるでゆりかごだ。夏の真昼間、乗客は多くはない。さみしい車内に次の停車駅を告げるアナウンスが響く。
次は、○○、○○。
わずかな乗客たちは一斉に席を立つ。少女は視線ひとつ動かさず、流れる草を見つめていた。
*
五限目の終わりを示すチャイムの音とともに、私は数Ⅲの教科書を乱雑に閉じた。机の脇のスクールバッグを取り上げて、中に入っていたノートも教科書も全部机の上に積み上げる。立派な山になったそれをむなしく眺めて、ずいぶん軽いバッグを肩にかけた。
五千円ぽっちの入った財布と、律儀に電源を切った携帯電話。ハンカチとティッシュ、それからほんの小さなポーチ。それだけが私の全財産だった。
どうしたの。声をかけてくるクラスメイトに愛想笑いを返して、窮屈な教室を飛び出す。校門まで、走った。
*
次は終点、○○○。
少女はようやっと重い腰を上げる。冷房の効きすぎた車内で体が冷えたのか、ぶるりとひとつ身震いする。乗り換え案内のアナウンスには耳を傾けない。どれでも構わないから、やってきた電車に乗るつもりだった。
携帯の電源はずっと切ったまま。
*
一体逃避になんの意味があるんだろう。ただ電車に乗って、遠くへ行ってしまいたいと思った。私は疲れていたのだ。白いノートを黒々と塗りつぶしていく受験勉強にも、受験は団体戦、なんて紋切り型にくりかえす先生の声にも。友だちと競い合うのが嫌になった。親からの期待と重圧で胸がつぶれそうだった。志望校調査に書くのはいつだって将来の夢じゃない、無彩色の未来に真っ黒な現実だ。自由に生きるなんて叶わない。冒険なんてできない。そこそこの大学に入って、そこそこの企業に就職して、そして社会の歯車になる。だれもがそんな未来を当然のように語る。無機質に突き返されるB判定に、人生の意味を問うた。
後先なんて考えていない。遠くへ行きたい。全部捨ててしまって、だれもいない場所へ行きたかった。それだけだ。
*
流行りの恋愛小説を読む女性。疲れた顔のサラリーマン。部活帰りの、汗まみれの女の子。少女の目の前に座った男性は、腰を下ろすやいなやワンカップの蓋を開けた。
べしゃり。こぼれた酒が少女の革靴にかかる。
「すみません」
「いえ」
あわててティッシュペーパーを取り出そうとする男性に首を降って、少女は「大丈夫です」と呟いた。
「どうせ、かなり履き潰した靴なので」
「はあ」
男性がわずかに首をかしげる。
「このあたりの訛りじゃありませんね。どちらから?」
*
白いセーラー服に、空っぽのスクールバッグ。ほとんど身一つでここまで来た。
知らない人たち。知らない場所。窓の外は少しずつ彩度を失ってゆく。どこかときめくようだった衝動のかわり、心細さばかりが私の心を蝕んでいた。電車はもはやゆりかごじゃなく難破船だ。
きっといつかはあの場所に帰ることになると理解している。けれどそんなことは考えたくない。今はなにも考えたくない。
*
「少し、遠くから」
あいまいな少女の答えに男性は特に意味もなくうなずいた。それで会話は終わりだった。長距離を旅行してきたにしては少女の姿はどう見ても異質であったが、所詮他人同士、関わりあう義理もない。気まずい沈黙がやってくる。
まもなく、〇〇、〇〇。アナウンスが告げたのは、比較的よく知られた都市の名前だった。周囲の乗客が立ち上がる。少女はつられるようにして鞄を肩にかけた。
*
行動に意味なんてないし、価値もない。目に映る世界はすべて夢だ。そうでなければ、こんなに虚しいはずがない。
夜の風がビルの合間をすり抜けていく。世界は闇に染まりつつあった。行くあてなどない。名しか知らない遠くの土地で、私はひたすらにさまよい歩いた。
これからどうしよう。何故こんなことをしてしまったんだろう。帰らなければと思うのに、どうしても帰りたくないと思った。このままどこまでも歩いていきたいのに、恐ろしさに足がすくんだ。
私はいったい、どうしたいんだろう。問いに答えはない。
*
「大丈夫ですか」
大学生らしき青年が、コンビニの前でうずくまるセーラー服の少女に声をかける。少女はゆっくりと視線をあげ、小さくうなずいた。
「あの、どこか体調が悪いんだったら病院に」
「いえ。大丈夫です」
少女はスクールバッグを胸に抱えて、駐車場の車止めの上に腰をおろしていた。心配そうな青年の問いに首を振り、強く鞄を抱きなおす。
「でも。ご家族が心配する、し、連絡とか」
家族。
途端に少女が目を見開いた。焦点の定まらない目で呆然と中空を眺め、それからああ、と息を吐く。
「あの」
「大丈夫です」
ふらりと少女は立ち上がった。
*
歩いた。歩いて、歩いて、胸にくすぶる虚しさをどうしようもできなくて走った。周囲が奇異の目で見るのも構わず、ただ走った。目に留まった階段。かんかんと高い音を響かせて、一つ飛ばしで駆け上がる。
ぜえはあと息を切らしてたどり着いたのは、歩道橋の上。
分かったのだ、全部。どうして電車に飛び乗ったのか。どうして遠くへ行きたかったのか。どうして携帯の電源を切ったままにしていたのか。
私はきっと、死にたかったんだ。
生きるということは、人とつながるということだ。他者のつながりにおいてしか人は存在しえない。誰かから認識され、誰かと触れ合い、感情を交わしあうことで初めて人は生きていられる。人を生かすのは数多のつながりだ。
そのつながりをすべて、断ち切ってしまいたかった。
学校の教師、クラスメイト、部活のメンバー。習い事の先生に幼馴染、そして家族。そういったひとつひとつのつながりを、まとめて捨ててしまいたかった。つながっていることに疲れてしまったのだ。だから知っている人の誰もいない土地へ逃げて、全部、まとわりつくしがらみをかなぐり捨てて、そして自由になりたかった。社会の歯車にのまれてしまう前に、自分を生かすあたたかな牢獄から逃れたかった。
インフィニティ イコール ゼロ。複雑な関数をゼロに収束させる。自分という存在を、ゼロにリセットする。
私にとっては、それが自分の存在を殺すということだった。
歩道橋の上から道路を眺める。車のヘッドライトがびゅんびゅんと行き交って暗闇を刹那に照らしていた。柵に体を近づけて、スクールバッグを肩から足元へ落とす。柵の上に手をのせた。
家族が心配すると言われたとき、思いがけず胸をしめつけたのは恐怖だった。まったく知らない第三者におまえのルーツはそこにあると言われる恐怖。逃れられないしがらみが、闇の中から自分に向かってやさしく愛をこめて手を伸ばしている。自分はまさにそれを断ち切りたかったのだと気づいて、同時に絶望した。このスクールバッグひとつではどこにも行けないことに。どころか、安易に港を求める難破船の心が、あの牢獄に帰りたがっていることに。
帰りたくない。帰るしかない。違う、逃れる方法ならひとつだけある。
柵をのりこえるため、私はぐっと両手に力をこめた。
*
「あれ」
「どうしたの?」
「いや、フロントガラスに水滴が……。雨かな」
「ほんとだ。でも雨は降ってなさそうだけど」
「じゃあなんだろうなこれ」
「ちょっと、車運転してるんだからよそ見しないでよ」
「悪い」
「さっき歩道橋の下通ったし、多分たまってた水滴かなんかじゃない?」
「そっか、そうだよな」
「そうでしょ、気にすることないって」
*
「……っう、ぐ」
涙が止まらない。
柵に両手をかけたまま、その両手にうまく力が入らなかった。嗚咽で体が震える。胸の高さの低い柵が、高くそびえる壁のようだった。ぼたぼたこぼれる涙だけが、柵の向こう、暗闇の中へ落ちていく。
死にたくない。死ぬのがこわい。
死にたかったはずなのに。遠くへ行きたかった。ならば誰の手も届かない世界へ行ってしまえばいい。すべてのつながりを断ち切りたかった。ならば自らの命を断ち切ればいい。それなのにどうしてこんなにも涙がこぼれるのだろう。
結局、死をそれほどまでに強く求めてはいなかったということだ。だからいざというときになって足がすくむ。所詮その程度だったのだ。何も理解せず、何も意識せず、衝動だけで電車に飛び乗った自殺志願者など。
ずるりと歩道橋の上に座りこむ。足元に落ちたスクールバッグをひっつかんで、そこに顔をうずめて泣いた。革靴から漂うアルコールの匂いが鼻につく。社会のにおいだ。社会の歯車に抑圧されてきしむ、だれかの心のにおいだ。吐き気がした。
こんなにも帰りたくないのに、こんなにも遠くへ行きたいのに、それでも私は明日になれば帰るのだろう。そうでなければ生きていけないから。まだ死にたくないのなら、もとのつながりの中へ戻っていくしかない。
泣きながら鞄の中に手を突っ込んで、携帯電話を取り出した。電源をつけるとディスプレイにぽんぽんと大量の通知が浮かび上がってくる。どこにいるの。返事して。大丈夫? 家族から学校、それから友だちにも連絡が回ったのだろう。ありとあらゆる人からの心配の言葉が画面を覆いつくした。
それはまさに、断ち切りたいと願ったつながりで、けれど私を生かすつながりだった。
一言だけ、明日の朝帰りますと家族に連絡を入れてまた電源を落とす。今はまだ何も考えずにいたかった。ただの薄っぺらい板になったそれを鞄の中に放り入れて、代わりにハンカチを取り出す。まだ涙は止まらなかったけれど、強引にぬぐって立ち上がった。どこかファストフード店でも探して始発まで時間をつぶそう。帰りの切符代を考えれば使えるお金は五百円も残っていない。
歩道橋から見下ろした夜の闇の中に、まだぼんやりと店のネオンやビルの明かりが灯っている。私は嗚咽を噛みしめて、明かりのほうへと歩き出した。