【小説】誰が青い鳥殺したの

 足音が聞こえる。
 私は振り返らなかった。振り返りたくなかった。ただぼんやりと窓際に立って、目の前の光景を眺めていた。手を伸ばすことはしなかった。虚しいだけだ。

「残念だったね」

 声が聞こえた。私はようやく振り返る。仄暗い部屋の向こうであんたが私を見ていた。その視線が動いて、私の隣にあるものを捉える。違う、ないものを、捉える。

「逃げたのか」
「さあ」

 私は短く答えて視線を戻した。真鍮の鳥籠が窓から差し込む光を反射して鈍く光る。昇ったばかりの朝日は、空の遠くで昨日の残滓を殺してゆく。
 あの子の面影を殺すように。
 私は大きく開いた鳥籠の扉を閉めた。あんたをねめつけ、低く呟く。

「あんたが殺したんじゃないの」

 鳥籠の中に、鳥はいない。



 あんたはにこりと笑って、「まさか」と言った。

「誰がコマドリ殺したの、って? それはスズメだ。僕じゃない」
「あたしの鳥はコマドリじゃない」
「ああ、おまえの鳥はもっと飛ぶのが上手かった。だから逃げたんだろ。自由になったんだ。それが本分だから」
「本分」

 あんたがそんなことを言うのか。言外に非難を込めて言葉尻を捉えると、あんたは片眉を上げた。

「そうじゃないか? 空高く飛び立って、あの鳥は自由と希望と無限の可能性を手に入れた。煩わしい人間の世界からやっと解放されたんだ」
「違う、あんたが、あたしの鳥を殺したんでしょ」

 あんたが初めてこの家へやってきたとき、私の鳥を冷めた目で見下ろしたのを覚えている。「鳥か、犬ならまだよかったのに」と呟いたのを覚えている。あんたがずっと鳥のさえずりを疎ましく思っていたこと、私は知っている。

「あたしの鳥、ね」

 嘲るようにあんたは笑った。ぞっとする笑顔だった。

「違うな。あれは僕の鳥だった。忘れたのか? 去年の秋、僕がここへ来てから──僕がここの所収者になってから、ここにあるすべては僕のものだ。鳥だって例外じゃない。僕が僕の鳥をどうしようが、おまえの知ったことか」
「あの鳥をなつかせたのはあたしだった」

 強く手のひらを握りしめる。怒りで張り上げそうになる声を必死でこらえて、低く、低く唸るように続けた。

「あの鳥と幾度の朝を迎えたのはあたし。幾度の夜に身を寄せ合ったのもあたし。ひとはなつかせたものに責任があるの。あたしはあの鳥に責任があった」

 だのに、今あの子がどこにいるかもわからない。
 冷たい土をしとねに眠っているの。固い石を枕にして? 雨風をしのげる場所にいるのだろうか。あっけなく消えてしまったあの子を、私は埋葬してやることさえできない。あんなにずっとそばにいたのに。美しいものを見たとき真っ先に思い出すのも、幸せを感じたとき一番に共有したかったのも、あの子だったのに。

「サン=テグジュペリか。子どもだましだよ、そいつは。おまえはたしかにあの鳥の友だちだったかもしれない、だが飼い主は僕だ」

 唇を噛んだ私など見えていないかのように、あんたはポケットに手を突っ込んだ。心底くだらないと言いたげな表情だった。

「だいたい、責任があるというのならおまえはそれをどう果たす? ロミオよろしく僕に復讐するのか。それともジュリエットのように鳥のあとを追うか? どちらもできない。おまえが選べるのは、ここを出ていくか、ここに残るか。その二択だ」

 ひとつ、ふたつ、あんたが指を立てる。それからその指をすっと窓の外へ向けた。

「出ていくならそれもかまわない。幸福の青い鳥を探して旅にでも出るといい。思い出の国、夜の御殿、森、好きなところに行ってみたらどうだ。けどどこを探しても鳥は見つからないよ。チルチルとミチルもそうだっただろ。幸福の青い鳥は、ここにいるんだ」
「あの子はもういない」
「あの鳥はね。だがおまえにとっての幸福はここにある」
「そんなの戯言じゃない」

 こらえてきたものが一気に噴き出す。だけど声を荒げた私を、あんたは冷めた目で見下ろした。あんたが初めて私の鳥を見たのと同じ目だった。

「なにをそんなに怒ることがあるんだ。鳥が消えただけで」

 あんたの声は冷たかった。自分が剝製にした鳥のことを忘れていたトリゴーリンよりもなお冷たかった。それがかえって私を冷静にさせた。

「鳥が消えただけ?」

 胃の腑の底で沸騰した怒りが喉元へせり上がる。私はその怒りで言葉を丁寧にドリップして、ひとこと、一言、絞り出した。

「あんたがここへ来てから、少しずつ全部が変わっていく。家具を入れ替えて、生活のルールも変えて、そのうち壁も柱も、みんな変えてしまうに決まってる」

 そんなのはもう、私の家じゃない。
 あの鳥は象徴だった。自由と希望、無限の可能性の。それが奪われた今、どうして何も変わらないなどと言えるのか。鳥の存在を許せなかったあんたはきっとすべてを変えてしまう。そうなったとき、私の居場所はどこにあるの。

 あんたはちいさく息を吐いて笑った。私の怒りに息を吹きかけるみたいだった。

「じゃあ出ていくか」

 出て行けるのなら。そんな響きが言外にあった。私は歯を食いしばる。

「自分でわかってるだろ、おまえはどこへもゆけないよ。ここが洪水で流されようと、竜巻で飛ばされようと、おまえはここを捨てられない」

 あんたはもう鳥籠を一瞥もしなかった。そのまま身を翻す。

「おまえは鳥じゃない。どこへも飛んでゆけない。ここに骨をうずめるだけだ」

 吐き捨ててあんたが去ってゆく。もうこれ以上興味もないようだった。あんたにとって鳥を殺したことは、朝食にベーコン・エッグを焼くよりもたわいないことなのだった。

 私は詰めていた息を細く吐きだした。たしかにそう、私は鳥じゃない。きっとここを立ち去ることはない。だけど鳥の羽をもいだのはあんただ。あんたが殺した。それを忘れることも、ない。

 私は真鍮の鳥籠に向きなおる。そいつに手を伸ばして、そっと触れた。冷たい、そこにはもう誰もいない。私の友だち、私の愛した青い鳥。あの子がいなくなっても世界は回り続ける。この喪失感もいつか忘れるのかもしれない。

 だけどせめて今だけは、あの鳥のために祈りたかった。

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