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【小説】海の沈黙

 冷たい。

 足首にゆらゆらと光がちらつく。光って、一瞬あとに消える。暗く染まりかけた世界に浮かんだり、沈んだり。足を振り上げると、ぱしゃりとしぶきが上がった。きらきら、儚い。

 一歩、踏み出す。足裏で踏みしめる砂の感触はやわい。でも沈み込んで僕を飲み込んだりはしない。たしかに僕の体重を支えている。砂も波も、空も、そこにあるだけだ。

 僕もまた、ここにいるだけ。

 もう少し深いところまで行ってみようか。そうしたら何か変わるかもしれない。たとえば僕の感傷も、海に溶けてすっかり消えてしまうかも。波は僕に語りかけるだろうか。空は僕を包み込むだろうか。もう少ししたら完全に日が沈んで、星が出てきて、そうしたら僕の中の何かが変わるかもしれない。

 たくしあげたズボンのすそが濡れる。体の芯までしびれるようだった。それでもまだ、何かが物足りなくて、満たされなくて、変わってほしくて、僕は沖のほうへ足を進めた。

 太ももに波の揺らめきが届くころ、僕の手はうしろに引かれる。振り向くと、切羽詰まった顔の君がいた。

「どこ行くの」

 君の手は冷たかった。冷たくて震えていた。か細く小さく、震えていた。

「どこ行くの。その先には何があるの」

 まなじりをつりあげて君は言う。僕はなんだか急に冷えた水を飲まされたみたいになって、自分がおかしくて、ちょっと笑った。胃のあたりがやけに冷たかった。

「どこへも行かないよ」

 感傷に意味も理由もないのだ。人はみな意味を求めたがるけれど、そんなものはすべて後付けで、くだらなくて、本質をひとつも言い表してはくれない。哲学は高尚だろうか、詩は普遍的かもしれない、それでも言葉にならない「何か」がたしかにある。

 それはどこまで進んでも意味など持たない。だから何も変わらない。波は語らないし空は移ろうだけだ。僕の感傷はどこにも溶けださない。もしかするとぽっかり空いた穴に似ているかもしれない。ただ満たされた振りをするだけ。

 別に不幸でも何でもない。どこにでもあるセンチメント。

「ねえ、あんたはここにいるじゃん。それでいいでしょ」

 僕の欲求不満を感じ取ったのか、君はそう言った。意味のない言葉は僕の耳には心地よかった。僕は君を抱きよせる。

「そうだね」
「どこへも行かないでよ。その先には何もないんだから」
「わかってる」
「海は深すぎて……歩いて渡るには……」

 君はそこで言葉を詰めた。ため息とともに僕の肩に額をこすりつける。冷たかった。温度などない。君の言葉も、瞳も、色あせたトーキーみたいだった。心地いいだけのセピアのフィルム。僕の心を動かしもしない。

 空を見上げると星がひとつまたたいた。ひとつきりだ。明るいな、と思った。そこにも意味はないのだ。ただ星は光る。光るわけも知らず。そうして燃えて、いつかは爆ぜる。

「戻ろう」

 君を放して言うと、君はうなずいた。僕の手をつかみ、浜まで僕を引っぱっていこうとする。されるがまま足を進めながら、僕は一度だけ振り返った。暗い海と空のはざまに、日没の残滓が赤く帯を引いている。鮮やかさが何となく胸に焼き付いて、それだけは僕の心をかすかに動かした気がした。

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