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【小説】そのコーヒーは恋の味などしなかった

 ぱたりぱたりと、思い出したように雨は窓を叩いた。ほの暗い部屋に水のにおいが漂っている。私は一度席から立ちあがって、壁際まで歩いていって電気のスイッチを二つ同時に押した。ぱっと、研究室が明るく照らされる。振り向くと、ちょっと驚いたような二つの目玉が私を見ていた。すぐにそれは笑みに変わる。

「ああ、ごめんなさい。暗かったよね、ありがとう」
「別に、私はいいんですけど。暗くて困るの先生じゃないですか」

 答えて、けれど私は元の席には戻らなかった。なんとなく壁際に立ったまま、先生の手が赤いペンを机に置くのを見ていた。二人きりの部屋に落ちる沈黙は、意識したとたんに重さを訴える

「ここのところ」

 ぱたりぱたり、鳴る雨音に先生の声がまじる。

「君が優しいのは、罪滅ぼしのつもりですか、それとも」

 それとも。その先に先生が何を続ける気だったのかは知らない。けれど私はそれを聞く気はなかったし、私の中ではずっと答えなんて決まっていたのだからほとんど条件反射のように「まさか」と声に出していた。

「私は、悪いことをしたとは思っていませんから。先生に償わなきゃ駄目なことなんて何もない」

 三秒、沈黙。それからため息。「そうですか」と簡潔な返事があって。またその細い手は赤のペンを持つ。視線が下げられて、すぐにペンは私のノートの上を走りだした。私はやっぱり席には戻らず、反対側の窓のほうまで歩いていった。水滴が筋になって流れていく。一つ、二つと道をつくって。しばらく、そのまま。雨の音と、ペンの音。それを聞くともなしに聞きながら、私は流れる水の筋を数えていた。

「私は」

 背後から聞こえてきたのは先生の声。私は振り返らなかった。

「君に、裏切られたような気持になった」
「そうですか」

 非難めいた言葉に返す答えを、私はそれしか持ち合わせていなかった。ごめんなさいと言う気にはどうしてもなれなかった。

「薄情だなあ」

 わずかに笑みを含んだ声。そこでようやく私は振り返る。

「どんな言葉をお望みですか」

 たずねれば、先生はやはり少し笑って「ほら、そういうところですよ」とペンを振った。

「別に謝ってほしいわけじゃないんですけどね。せめてもう少ししおらしくというか、少なくともそのふてぶてしさは是非改めてほしいなあって」
「生来です。ご容赦ください」
「ううん、生来だからこそ今、ここで矯正すべきなのでは」
「無理です」

 きっぱりと答えると、先生は「でしょうねえ」と言いながらまた顔をノートのほうに伏せた。私はまた窓のほうへ視線を向けようとして、けれどそれよりも早く先生が口を開いた。

「そんなんじゃ、お母さんも苦労するでしょうね」

 私ははたと動きを止める。そっと先生を見ると、彼女は私のノートに視線を落としたままだった。ペンが、動いていない。

「だいぶ根に持ってますね」
「ええまあ」

 ごまかすように、やっとペンの先が動いた。けれどそれはいつもの確信に満ちたものではなくて、彷徨うような不安定な動きだった。

「君はこのまま私の研究の手伝いをしてくれるものだと、まったく信じていたもので」
「仕方ないじゃないですか」
「そう、仕方ないんですよ」

 観念したようにペンが置かれる。それから先生は大仰に息を吐いてみせた。わざとらしいと思ったけれど、私はそれには触れなかった。

「もしも、恋、だったら」

 吐ききった息を吸って、先生はそう言葉を紡ぐ。

「もし君が恋にうつつを抜かしているんだったら、絶対引き戻すのに」

 ペンを置いた手が、デスクの上のマグカップに手を伸ばす。そこに入っているのが薄いブラックコーヒーであることを私は知っている。入れたのは私だ。以前までならそんなこと絶対しなかったけれど、何か最近はそんな気分になるのだ。それは断じて罪滅ぼしではない。

 先生はマグをかたむけてそれを飲んだ。苦い、と呟きがこぼされる。苦いのが先生の好みだというのは知っていたから、私はよかったですね、なんて言った。しかめられた先生の顔は面白くて好きだった。

「恋、と言えば」

 首をかしげてこちらを見た先生に、私はちょっと笑ってみせた。

「ご存じですか。『コーヒー、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、恋のように甘い』と」
「甘い」先生はオウム返しにそこだけを繰り返した。「甘いんだ、コーヒーが、恋のように?」
「らしいですよ」
「へえ。コーヒーは苦いと思うけどな」
「恋の甘苦さをコーヒーにたとえたんじゃないですか」

 ちょっと先生は考える素振りを見せた。

「つまり、恋は苦いもので、けれどその中に舌先をしびれさせるような甘さがある、と?」

 ことりと、マグが置かれた。確かめる口調がほんの少しおかしくて、私は「納得のいかない顔ですね」と言う。

「そう言う君は、恋を知っている顔ね」

 ぐっと、先生が上半身をデスクの上に投げ出した。さらさら落ちた髪の隙間から、気だるげな目が覗いている。

「んん、まあ、そうですね、人並みに」
「甘いですか、恋は」
「多分、甘かったんじゃないかな。院に入ってから、というか先生の手伝いをするようになってから久しく恋をしていないもので、あんまりちゃんと覚えてないんですけど」

 院に入ってこの研究室に来たのは二年前のことだが、大学に入ったときから先生の手伝いには来ていたから実質もう六年だ。ずいぶんこの人と一緒にいたものだと、今は目を向けたくもないセンチメントが喉の奥でくすぶった。

 先生は体を投げ出したまま、じっと私のほうを見ていた。と言ってもその目は変わらず憂鬱さをにじませていたから、どこを見ていたのかは判然としない。もしかしたら私の向こう、窓の外に広がる東京の街を見ていたのかもしれないし、その上を暗く覆う雨雲を見ていたのかもしれない。

 ややあって、先生はにいと口角を持ち上げた。

「『しかし……』」

 今度こそ先生はたしかに私のほうを見た。

「『君、恋は罪悪ですよ』」

 私はまたか、と思って肩をすくめた。ここ最近の先生の口癖だ。先生は自身と私の関係を、夏目漱石の『こころ』における「先生」と「私」にたとえたがった。気持ちは分からないでもないが、どちらかといえば魯迅の『藤野先生』のほうが私たちの状況には当てはまっているような気がしたし、第一『こころ』の比喩はあまりにも不吉だから好きではなかった。あるいはそういった不吉な印象を私に植えつけるためにあえてその比喩を持ち出しているのかもしれないとも考えたが、私の知っている先生はそこまで病的じゃない。

 不器用で、実直なひとだ、ひどく。

「恋を、知らないくせに」

 するりとこぼれ出たのは棘をもった言葉だったけれど、私なりの一種の照れ隠しだったのだと思う。先生が「先生」の言葉を引くたびに、自分の中にくすぐったいような嫌悪感が積もっていくのを感じていた。多分、それがこぼれ落ちたのだ。だって私は「私」じゃない。先生の言葉ならなんでもありがたく受け取ろうなんて思えないし(むしろ私は常に先生には批判的だった)、先生と一緒に散歩がしたいなんて思ったこともない。「私」が抱いていたような、一種盲目的な熱意を、私は先生には抱けないのだ。

 だから、言ってしまえば少し馬鹿にするつもりで私はその言葉を投げた。先生は「先生」じゃないと示す気持ちもあったかもしれない。いずれにせよ、深く考えての言葉ではなかった。

 しかし先生は、私の言葉を聞くと薄く笑った。「手厳しいな」と呟いて、軽くマグをゆらす。ああ、しくじったな、と思った。

 事実このひとは、恋を知らないのだ。恋、どころか、きっと人のぬくもりというものをまともに知らない。知ろうとしないのか、知る機会がなかったのか、はたまたは理解ができないのか、それは定かではないが。研究だけにその身を費やして生きてきたから。研究以外は排除して、――研究を、いわば『目的物』として。私だって先生にぬくもりを教えてあげられなかった。だからこのひとは孤独だった。この東京という化物とも見紛うべき混沌の中において、先生はたったひとりなのだった。

 それを思い出させるような淋しい笑顔を見ると、どうしても先生をここにひとり残していかなければならないことが悔やまれた。ずっと一緒に研究を手伝うと、約束したわけではない。しかし私自身、つい先月まではそんな漠然とした未来を信じていたのだから、私の離反を裏切りだと言うのならばそうなのだろう。

「ねえ、恋っていうのは、そんなに良いもの?」

 マグに視線を落としながら、先生はたずねた。

「いいんじゃないですか、甘い、って言うくらいだし」
「そう。でも私は苦いのがいいなあ」

 屁理屈だ。けれどこの議論を続けてもやはり屁理屈を重ねるだけになるだろうことは容易に分かったから、私は口元に寄せたマグをかたむける先生を見ながら、別の論点で切り出した。

「どちらにせよ、人は他人のぬくもりがなければ生きていけない生き物ですよ。恋はあくまでその一つです」

 先生には、分からないのだろうけれど。
 先生はマグを口から離した。次いで、笑った。

「君は、一か月後にはいなくなってしまうくせに私にぬくもりの尊さを説くのね」

 私には先生の言葉の意味が分からなかった。だって先生は私がいてもいなくても孤独なひとだ。先生にも理解させる気はなかったようで、また構わずマグに口をつける。私は気まずさから目を反らして窓を見つめた。ああ、そういえば雨だったなと、半刻も過ぎていないのに忘れていた事実を思い出した。

「君がご実家に帰るのも、つまるところはぬくもりですか」

 しばらくして、それから先生はそう言った。私は「そうですね」と答えた。

「母を、ひとりにはしておけませんから。ひとりでは、あのひとはきっと生きていけないから。だから帰るんです」
「君の夢を犠牲にしても?」
「結果的にそういうことなんでしょうね」

 私だって、できることならばこのまま研究を続けていたい。けれどそれは母を見捨てることと同義なのだ。悩んで、悩みぬいて、それなのに答えは厳然たる面持ちではじめから私の前に端座していた。母を捨てるなど、できるわけがなかった。

「私ならきっと、研究を選ぶな」
「私だって一か月前まではそう思ってましたよ。でも駄目だったんです。いざ父の葬儀で、出棺を前にしてわんわん泣きすがる母を見たら、ああ、ここにいなくちゃって」

 ひと月前、父が死んだ。病気だった。前々から覚悟はしていたはずだった。それなのに身も世もなく涙を流す母を見たとき、悟らざるを得なかったのだ。ああ、このひとはひとりになるのだと。

 父の骨壺を抱いて家に帰った。六畳間の東向きの部屋が父の部屋だった。長く入院していたせいで片付いた部屋はひどく冷たくて、どうしようもなく広かった。

 ぬくもりを失くした広すぎる家で、私の母はこれからひとりきりで生きていくのだと思ったとき、どうして平静でいられただろう。私が思っていたよりもずっと母は父のことを愛していて、そして私は母のことを愛していた。家族というものは、想像だにしなかったほど、忌々しいほどの強さで結び付けられていた。それはもちろん愛であったが、しかしもしかすると孔子の説いた仁だか何だか、得体も知れず私たちの奥底に存在する倫理なのかもしれない。

 ありていに言ってしまえば、そのまま母をひとり残し置くことはたしかな罪悪に思えたのだ。

「そういうもの、ですか」
「そういうものみたいです、先生も多分、そういうときが来たら分かると思いますよ」
「そう」

 あいまいな声のあと先生は押し黙った。私はもうこれ以上話すこともなかったので、またじっと水滴の流れるのを見ていた。ペンの走る音は、すぐに背後から聞こえてきた。

 ぱたり、落ちた水滴が流れていく。その道筋で、別の水滴とぶつかって、溶けあって、そうしてふたつは一緒になって滑り落ちていった。その横で、一筋、大きな水滴が他には目もくれずすうっと滑った。無数の道が、時にはその軌跡を残し、時には虚しいほどにあっけなく、無機質なアクリルガラスの上を滑り落ちていく。

 ふっと、そういえば先生のペンの音が好きだったなと思った。六年間ずっと先生にノートやら論文やらの添削をしてもらっていたけれど、それは先生にお願いしたかったからというよりはきっとこの音が好きだったからなのだろう。そして先生がそれを一度も拒まなかったのは、やはり先生が私のことを気に入ってくれていたからなのだと、たしかに思う。

 初めて先生と出会ったとき、私は迷いなくこのひとを「先生」と呼んだ。そうして、「先生の論文、読みました。素晴らしかったです」と言った。それだけだ。けれどそれだけが、誰からの評価も受けず研究一辺倒に生きてきた先生には必要だった。

 なにせ先生はまだ若かったのだ。大学教員という立場ではあったけれど、それにしてはずいぶんと若年だった。だから孤独なこのひとに、たったそれだけの私の言葉は簡単に響いた。

 それが幸いだったのか否か、今はよく分からない。幸いであればいいと願っているけれど、しかしこのひとをひとり東京の真ん中に残していかなければならない今、やはりそれは不幸せだったのかもしれないとも思う。どちらにせよ、それは先生にしか分からないことだし、何だかんだと言いつつも私に出会うまでの人生をひとりで生きてきた先生は、きっとこれからだって上手くやるのだろう。幸と不幸とにかかわらず、ひとりであることは先生の十八番だから。

 そして正直に言ってしまえば、それは歯がゆいことだった。私がいなくなればこのひとは孤独になってしまうくせに、もとよりぬくもりというものを知らないこのひとは孤独であろうと変わらずに生きていくのだ。

 母を田舎の広い家に残し置くのも、先生を東京の混沌たる街中にひとり置いていくのも、私には同じく心苦しいことに思われた。けれど母をひとりにすることが罪であっても、先生をひとりにすることは決して罪にはならないのだ。

 愛をはかりにかけるような愚かな真似はしたくないが、強いて言うならばきっと私は同じくらい二人のことが好きだった。それなのに、ただ血のつながり、それだけが私と母とを分かちがたく強固に結びつけている。倫理と法と、既成観念と――なんとわずらわしい世界だろう。しかしそんなわずらわしい世界でなければ私は先生を選び母を捨てていたのかもしれないと考えると、どうしても身震いがした。私はあのひとの娘だった。

 しばらく沈黙があって、私は先生がペンを置いたことを悟った。すると室内には雨の音だけが満ちて、私の中の感傷は濡らされたようになった。喉のあたりでくすぶっていたものが、するりと落ちる。

「たまには、顔を出します」

 これは罪ではない、だから罪滅ぼしなどできるはずもない。それでも、気にかけるくらいは許してほしかった。

 すこしの間があって、ゆっくりと先生は「それは、淋しいな」と言った。その言葉があんまり切なげだったから、もう私は何も言えなくなってしまう。

 ぼうっと見つめた先で、一滴のしずくが流れる途中で道を分かてて落ちていった。



 ざあざあと、雨の音ばかりが響く研究室はどうにも広くて、そこら中に漂う水の気配に寒気を覚えました。デスクに置いてあった飲みかけのコーヒーを口に含んでみましたが、それはとうに冷えていて私はため息をこぼすほかありません。

 一度ぬくもりというものを覚えてしまうと、そのあとの冷えたコーヒーなどは飲む気になれないものです。

 私はマグを机の端に追いやって、先刻まで窓際にたたずんでいた私の小生意気な生徒のことを思い浮かべました。

 彼女と初めて会ったときから、実を言いますと、私は彼女のことを『こころ』の「私」と重ねて見ていたのです。なにぶんそれは直感的なものでしたから、理由を問われると答えようがないのですが。強いて言うならば、彼女の不思議な真面目さ、堅いというのとは違う、直情的な真面目さが「私」と被って見えたのかもしれません。彼女は私の真面目な生徒でした。そして私は、真面目なつもりでその実人生の一切から目を背けていた孤独な人間でした。どこをどう取っても、私は「先生」ではありませんでしたし、また彼女の先生としてもふさわしくない人間なのです。

 そんなことは、私が最もよく理解しているのです。

 それでも、彼女は私のことを迷いなく先生、と呼びました。「恋を知っている」と言った彼女は、しかし異性ではなく、他でもない私を『目的物』としてここへやって来たのです。言ってしまいましょうか、彼女はその実恋を知らないのです。「恋の満足を知っている者」は、彼女のように不満げな顔で恋を語りはしないものです。

 恋を知らない彼女は、心の落ち着くところを、すなわち満足を求めて私のところへ来たのです。

 だから、もしも恋、だったら。

 彼女が私のもとを離れるのが恋ゆえであれば、私は絶対に彼女を引き留めるつもりでした。「先生」はきっと「私」を引き留めなかったでしょうが、あいにくと「先生」ではない私はそんな綺麗事を言いたくはなかったのです。彼女が恋を知り、それ故に私のもとを離れた瞬間、私は彼女にとって恋の代替品だったということになってしまう。私はそれが嫌でした。永遠に彼女の『目的物』でありたかったのです。

 けれど結局、彼女がここを去るのは恋ではありませんでした。家族のため、愛と倫理と道徳のため、彼女は私のもとを去るのです。引き留めようがありません。引き留めることこそが罪なのですから。覆しようがなく、彼女はここを去ります。

 彼女は孤独だった私のもとへとやってきて、ぬくもりというものを教えて、そうして私をまた孤独に置き去りにするのです。

 彼女は私がまだぬくもりなど知らないままだと思い込んでいるようですが、そんなことはありません。私はたしかに彼女のそばでぬくもりを得ました。人と触れ合わず、誰とも真には心を通わせず生きてきた私にとって彼女は初めての隣人でした。思いを受け取り、また思いを返す相手でした。私は彼女のことが好きでしたし、彼女も私のことが好きだったのです。それがぬくもりでなくて一体何だというのでしょう。

 一度ぬくもりというものを知ってから味わう孤独は、きっとぬるくなったコーヒーよりも味気ないものです。

 私はゆっくりとマグをゆらしました。悪魔のような黒が波紋を描いて、映りこんだ私の顔をゆがめます。

 孤独を思うとあんまりつらいから、ふいに考えてしまうのです。彼女が私に向ける感情が恋の代替物などでなく、恋そのものだったら。私が彼女に抱く親しみもまた、恋のかたちをしていたなら。そうすれば私は彼女を引き留めることができたでしょうか。家族に寄り添う彼女のこころに、恋でならば対抗することができたのでしょうか。

 答えのかわりに、雨音だけがうるさく窓を叩きました。どこまでも広がる曇天の下に、東京の街並みが遠くかすんで沈んでいました。
 


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