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褒めて生まれる勘違い


2024年3月15日(金)朝の6:00になりました。

褒める者が一人いれば、十人の敵がいると思いなさい。

どうも、高倉大希です。




「桃鉄に枚方市を追加してください」

桃鉄ゲーム監督の前でガチプレゼン 大阪・枚方市小倉小学校の6年生


先日、こんなタイトルのニュースを見かけました。

小学生がゲーム監督に向かって、枚方市の魅力を一生懸命に伝えたそうです。


そんな小学生に対して、ゲーム監督はこう答えます。

「無理です」


「まず枚方に対して調べ方が足りない。どういう条件がクリアしないと入らないかということも調べられていない。なぜ選ばれて、選ばれていないかを言及している人がいません。なぜ近いまちが入っていて、枚方が入っていないか。実際の現実というのはライバルがいます。比べられます。それを押しのけた人が、自分の提案が採用されたり、されなかったりします」

Yahoo!ニュースの該当記事より


なかなかに痺れる回答です。

ごもっともすぎて、何も言うことがありません。


こういう場面でわたしたちは、魅力をPRすることだけを考えがちです。

本来ならば、監督のコメントにもあるとおり「そもそもなんで選ばれていないんだっけ?」ということを考えなければなりません。


端的に言うならば、相手視点がまったく足りていないわけです。

要望を伝えさえすればあとは何とかしてくれると、思ってしまっているのです。


ムダな頑張りを褒めると、間違った方向に人は進みます。「これさえやっとけばいい」という発想になります。「評価」という仕組みは、それくらい慎重に扱うべきものです。

安藤広大(2023)「とにかく仕組み化」ダイヤモンド社


ここでもし監督が「いいプレゼンだったよ」と褒めていたとしたら。

彼らはきっとこれからも、ひとりよがりなプレゼンを続けていたと思われます。


これでいいんだという勘違いを抱えたまま、大人になっていくわけです。

フィードバックをもらった子どもたちは、実際にこんな感想を残しています。


「悔しすぎたのでもう一回チャレンジしたい」

「考えるのはタダだから、もっと頑張って大人の人でも納得ができるようなプレゼンをしてみたい」


ぼくは、先生の役割って、一つの狭い常識のなかで生きている人に、そうじゃないよと教えてくれて、でも、その答えは自分で見つけなさいよらといってくれることだと思います。だから、先生を見て、「ぼくって、わたしって、ちっちゃいなあ」と思えるような人じゃないとダメなんじゃないかなって思います。

高橋源一郎(2022)「5と3/4時間目の授業」講談社


できていないものをできていると、評価してしまう人。

頑張ったことそのものを、評価してしまう人。


この人たちが、状況をよりややこしくしているのだろうなと思います。

褒めて生まれる勘違いの恐ろしさを、まったく考えていないのです。


考えていないどころか、よかれと思って褒めています。

褒められた方も嬉しくなってしまうので、誰もこの恐ろしさに気づきません。






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