涙は心のデトックス。舞を見て泣き、和歌を聞いて泣く平安貴族に見る「泣きの極意」
邪気払いとデトックスは似ている!?
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
2023年がスタートしました。新しい年の始まりって、なんだか清々しい気持ちがしますね。
では、どうして新年は清々しい感じがするのでしょう?
きっと様々な理由があると思いますが、日本文化の観点から見ると、世の中に溜まった穢れや邪気が祓い清められ、浄化されたからと言えます。
昔の人たちは、月日が経つことで世の中に穢れや邪気が蓄積していくと考えていました。そこで季節の変わり目には、邪気払いの行事を行っていました。節分や節句なども、元々は邪気払いの意味合いが強い行事です。
さて、1年の終わりである大晦日にも邪気は溜まっているわけです。そこで朝廷では、疫病や災害の原因となる悪鬼を追い払うために「追儺(ついな)」という儀式を行ったり、浄化を祈願するために「大祓(おおはらえ)」という神事を行ったりしてきました。
鬼を追い払う「追儺」は、後に民間に広まり、節分の豆まきへと繋がっていきます。そして「大祓」は、現在でも宮中祭祀として受け継がれている他、全国の神社で神事として執り行われています。
こうやって旧年の穢れや邪気を祓い清めるからこそ、新しい年は清浄な気配に包まれているわけです。
邪気払いって、なんだかデトックスみたいですね。
世の中に溜まった邪気を祓い清めることと、体内に溜まった毒素や老廃物を排出するデトックス。似ていませんか?
ところでデトックスと言えば、身体的なデトックスだけでなく、心のデトックスも大切だなぁと感じます。
日々のモヤモヤやイライラ、傷ついたこと、悲しかったこと。心の底に重く冷たく蓄積していくそれらを放置していると、そのうち心は疲弊してしまいます。
この世にはびこる穢れや邪気がやがて疫病や災害をもたらすように、心に溜まった毒素は、いずれ私たちの心身を蝕みます。
そうなる前に、心のデトックスが必要です。
季節の変わり目に邪気払いをするように、心に溜まったよどみは定期的に綺麗にしてあげなくては!
ということで、今回は私の体験と古典作品を元に、心のデトックスについて考えていきます。
感動の涙は抜群のデトックス効果あり!
元来、私はネガティブ思考が強く、鬱々を溜め込みやすいので、心を軽くするために色んなことを試してきました。
ゆっくりお風呂に入る、心地よい音楽や香りを感じる、美味しいものを食べる、緑の多い公園を散歩をする、などなど。
その中で、私にとって効果的なのは「泣くこと」でした。
涙を流すことで、心の中のドロドロが洗い流され、とてもすっきりした気持ちになるのです。
ここで言う「泣くこと」とは、何かつらいこと、悲しいことがあったから泣いてしまったという涙ではなく、感動の涙や心を浄化させるような温かな涙のことです。
私は涙もろい人間で、些細なことでも涙が出てきます。
最近は、勤務先の高校で生徒たちの合唱を聞き、目頭が熱くなりましたし(仕事中なのでこらえましたが)、YouTubeで保護犬猫の動画を見てぽろぽろ涙が出ました。
本を読んだり、映画を見たりしてもよく泣きます。
私は国語教師なので、つい物語を考察しながら鑑賞してしまうのですが、「この後の展開はきっとこうでしょ」「これは観客を泣かせる流れでしょ」と分かっていて、頭の中で冷静に物語を批評している自分がいるのにも関わらず、感動してまんまと泣いてしまいます。
こういう時、頭と心は別物だなぁと実感します。そして、いくら頭が冷静に努めようとも、心の動きは止まらないんだなぁと思います。
そうやって心の赴くままに涙を流すと、気持ちが軽くなっていることに気づきます。
さて、あなたは泣くことについてどう思いますか?
「いい大人が泣くなんてみっともない」
「そう簡単に涙を見せるもんじゃない」
「あの子ってすぐ泣いてずるいわよね」
泣くこと、涙を見せることに関しては、このような否定的な意見もあるでしょう。
涙をぐっと堪えて耐え忍ぶことこそ美しいという考えもあります。
それはそれで素晴らしい価値観です。
ただ、そういう耐え忍ぶ美徳だけが日本文化ではありません。古典作品を紐解くと、実は日本人ってけっこう情動的に泣いていたりするんです。
古典では帝もイケメンも、武士だって泣く
古典の中には、数多くの涙の表現が登場します。
例えば『源氏物語』。
『源氏物語』は現代の漫画家によって漫画化していますが、主人公があまりにもよく涙をこぼすので、現代人の感覚になじむように漫画では笑ったり、違う感情表現に変えたりしているそうです。(榎本正純『涙の美学―日本の古典と文化への架橋―』より)
また、古典では涙で衣の袖が濡れることを意味する「袖の涙」という表現がよく出てきますが、日本文学研究者のツベタナ・クリステワ氏によると、自身が『とはずがたり』という作品をブルガリア語訳した際、「袖の涙」に関して読者からこんな質問が頻出したそうです。
「昔の日本人は、女も男も、どうして絶え間なく涙を流していたのだろうか。お化粧をしていたらしいのに。それに、いくら濡れても濡れきらないあの袖は、タオルのような生地でできていたのだろうか」(ツベタナ・クリステワ『涙の詩学』より)
袖の素材は絹で、もちろんタオル生地ではありません(笑)
ただ、外国の読者がそんな風に思うほど、日本の古典作品には涙の表現が多いのですね。
そして現代では、女性よりも男性の方が泣かないイメージがありますが、古典では男性もよく泣いているので、いくつかの例をご紹介しましょう。
『源氏物語』「紅葉賀」より
光源氏が18歳くらいの頃。源氏は、宮中で青海波という舞を舞いました。そのあまりの見事さに、ご覧になっていた帝は涙を拭い、他の上級貴族や皇族たちもお泣きになりました。
原文では、「おもしろくあはれなる」様子に涙したと書かれています。つまり悲しいからではなく、感動したから泣いています。
「あはれ」という単語は、古典の授業で習った方も多いと思いますが、喜怒哀楽から生じる深い感動を表わす語です。源氏の舞によって、天皇までもが感動の涙を流しているのです。
『伊勢物語』「東下り」より
教科書にも載っている場面なので、ご存知の方も多いでしょう。
主人公の男(平安時代きっての色男、在原業平がモデルとされる)は、自分なんて役に立たない人間だと思い悩み、友を連れ、京を離れて東国に向かいます。その道中、男が都にいる妻を想う和歌を詠むと、一緒にいた人たちはみな涙を流すのです。
しかもちょうどご飯時。乾飯(かれいい)というご飯を乾燥させた携帯食を食べていた際にみんな泣き出してしまったものだから、涙で乾飯がふやけてしまうというオチがついています。
この2つの例では、舞や和歌に深く感じ入ったために泣いています。
彼らは繊細な感受性を持っていて、感情のままに涙することを恥じていませんし、周りの人たちも変だと思っていません。
フィクションだからでしょ?と思われるかもしれませんが、こんな風に泣くことを良しとする文化があったからこそ、このような描写が生まれるわけです。
では武士はどうだったのでしょうか?
さすがに武士は芸術では泣かないかと思いきや、『平家物語』には、祇王という白拍子(女芸者のこと)の歌を聞いて、その場にたくさん並んでいた平家一門の男たちが感動の涙を流すという場面があるんです。
また、『平家物語』に登場する武将は、戦の場面でさえ敵を思って涙を流します。
『平家物語』「敦盛最期」より
源氏の熊谷直実は、自分の子ほどの年齢の、見目麗しい平家の若武者である平敦盛と一騎打ちになります。なんとか命を助けてあげたいと思った熊谷ですが、状況がそれを許さず、熊谷は泣く泣く敦盛の首を討ち取ります。戦いの最中から涙を抑えて戦っていた熊谷ですが、討ち取った後、敦盛のことを思い、袖に顔を押し当ててさめざめと泣くのです。
立派な武将ですら、こんな風に泣いています。
日本の古典では、現代人よりもずっと素直に、泣きたい時は心のままに泣いているんです。(もちろん、涙をぐっと堪えている場合もありますが)。
心が動いたら、思うままに泣いてみよう
私は拍手を聞くと、涙が出ます。
何かの舞台を観に行ったとして、観客たちが拍手を送っているのを見ると、泣きたくなるのです。観客たちの感動が、拍手を通して伝わってくるからです。
他には、電車内で若者がお年寄りに親切にしている姿を見ても、なんだか泣きたくなります。
このように、私は感動泣きが得意です。そんなところは平安貴族と似ているかもしれません。
泣くことは心のデトックスになると前述しましたが、感動泣きをすると心が満たされた気分になるので、デトックス以上の効果がある気がします。
だから、現代人はもっと感動泣きをやったらいいんじゃないかなと思います。
平安貴族が歌舞に感動して涙を流していたように、私たちも美しいものや素晴らしいものに触れて心が動いたならば、そのまま泣いてみてはどうでしょうか?
現代人は、さすがに和歌を聞いて泣くのは無理だと思うので、本や映画、音楽など、自分の心に引っかかるものを探すと良いですね。私も「泣ける本」「泣ける映画」をネット検索することがあります。
泣くことに慣れていない方は、そうやって心が動きそうなものを少しずつ試してみてはいかがでしょうか?
涙の後には、きっと心の豊かさが感じられるはずです。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)