大河ドラマ『光る君へ』もクライマックスへ。従五位って何?そこで『フワッと、ふらっと、位階の法史学』
『フワッと、ふらっと、位階の法史学』
紫式部を主人公とした今年の大河ドラマ『光る君へ』もクライマックスへ。
このドラマでは、従五位や正二位といったような位階に関するセリフがよく出てきます。
そこで、位階とは何なのかをフワッと、ふらっと、概観していきたいと思います。
平安時代は巨大な官僚組織と、大宝・養老律令による、驚くほどの精緻な法令システムによる律令国家体制が敷かれていました。
しかし、複雑・難解すぎる社会システムは得てして、みんなついていけなくなり、崩れていくもので、
紫式部の時代は、律令制が崩壊しつつある時代でした。
とはいえ、律令制の残滓がまだある時代でしたので、
(なお、現代も国家・公共に対して功績のあった人がご逝去された際に、その栄誉を表彰し、追悼の意を表す栄典制度として位階制度が残っています)
その基本的な部分がわかっていると、『光る君へ』がより楽しめるかと思います。
律令制のキーポイントは位階にあると思います。
これは当時の要職に就くための資格であり、ランク付けです。
「正一位」から「少初位下」まで30ランクあります。
30段階全てを記すと煩雑になるので、上位のみを示すと、
正一位(1)
従一位(2)
正二位(3)
従二位(4)
正三位(5)
従三位(6)
となります。
ここまでのランクにあるものを「公卿」といい、いわば上級貴族のことです。
このランクの資格がある者は、
今でいう内閣に相当すると思われる、
太政官の最高幹部である官職
(太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)
につくことができます。
これ以降は、「正」位・「従」位がともに、
「上」「下」の二段階に分かれます。
正四位上(7)
正四位下(8)
従四位上(9)
従四位下(10)
正五位上(11)
正五位下(12)
従五位上(13)
従五位下(14)
という感じです。
六位~八位までも同様の感じでランク付けされ、
八位の下は、大初位(上・下)、
その下の最下級は、少初位(上・下)となります。
また四位・五位にある者は「諸大夫」と呼ばれ、いわば中級貴族で、
(五位以上を貴族とするという考えもあります)
以下のような各省や国司(今でいう都道府県に類似)で、
長官(NO.1)
次官(NO.2)
判官(NO.3)
などの官職につくことができました。
中務省(朝廷に関する職務全般を司る最重要省)
宮内省(政治に関係のない宮中の庶務を司る省)
治部省・刑部省(法務省&裁判所的な役所)
式部省(人事院&文科省的な役所)
兵部省(防衛省的な役所)
大蔵省(財務省的な役所)
判官の下のNO.4の官職は、主典といい、
長官・次官・判官・主典を合わせて四等官といいます。
四等官が、律令制における行政組織の基礎となっていました。
なお、長官・次官・判官・主典は、
各役所によって称号の表記が異なる場合がありました。
(読み方は同じです)
例えば、
兵衛府(皇族警備軍)・衛門府(宮廷警備軍)の場合、
長官は『督』
次官は『佐』
判官は『大尉及び少尉』
主典は『大志及び少志』
となります。
源頼朝は、伊豆に流される前『兵衛佐』であったので、
(但し、定員外の権官である兵衛権佐)
関東での支配を固め『鎌倉殿』と称される以前は、
御家人達から『佐殿』と呼ばれていました。
なお、兵衛佐の唐名(中国での名称)は武衛将軍といい、
これは社長をCEOと呼んだりする感じに似ており、
一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、
頼朝が『武衛』と呼ばれて嬉しそうにしてたのは、
当時としてはオシャレな呼び方されたからだと思われます。
国司(都道府県のようなもの)においては、
長官は『守』
次官は『介』
判官は『掾』
主典は『目』
となります。
紫式部(「光る君へ」では本名が「まひろ」となっています)の
父・藤原為時は、
従五位下となった後に、国司・越前守となります。
越前守の任期が終わった後はしばらく失職しますが、
その後、正五位下となり、国司・越後守となっています。
この時、まひろ(紫式部)の兄弟で従五位下になったばかりの惟規も、父・為時と共に越後国に同行したのですが、惟規はまもなく現地で亡くなってしまいます。
『光る君へ』では、涙を誘うシーンとして描かれていました。
律令制が瓦解した後も、
位階や上記のような官職名は、名誉称号として残り、
鎌倉時代以降の武士の世となった時代にも、
武士の中には自身のブランディングのため、朝廷に上奏して、位階及び官職名を得ようとした者もいました。
徳川家康が、多額の賄賂を公家に送り『従五位下・三河守』となるというシーンが昨年の大河ドラマ『どうする家康』で描かれていました。
なお、律令制の時代における六位以下の位階を持つ者は『侍』と呼ばれていました。
武士に関わらず、六位以下であれば、文士(文官・事務官)であっても、『侍』であったのですが、
後に武士となる階層の人々は、元々この階級の者が多かったためか、
(後に武士の棟梁となる階層の人々は『諸大夫』階級の者が多かったのですが、その傘下にある者は『侍』階級が多かったと考えられます)
時代が下ると、武士を侍と呼称するようになったとされています。
「各省」では、
長官は『卿』
次官は『大輔・少輔』
判官は『大丞・少丞』
主典は『大録・少録』
とされていました。
式部省では、
卿は、正四位下相当とされ、
大輔は、正五位下相当
少輔は、従五位下相当
大丞は、正六位下相当
小丞は、従六位上相当
大録は、正七位上相当
少録は、正八位上相当
とされていました。
紫式部の父、藤原為時は永観2年(984年)に『式部丞』に任じられています。
位階六位ですので、侍階級であり、まだ諸大夫(貴族)とはなっていない段階です。
前述しましたように、
藤原為時は最終的には『正五位下・越後守』となりますが、
『紫式部』の『式部』は、
父・為時が『式部丞』であったことから、
『紫』は、『源氏物語』の登場人物、
『紫の上』が由来ではないかと考えられています。
なお、位階の取得方法ですが、主に二つあって、
まずは、学問を修め試験に合格することにより与えられる中国の科挙的な方法がありました。
この方法で、庶民の中からも位階を得て、官職を得た者もいましたが、
貴族・豪族レベルの経済的余裕と時間がないと、
当時、子息を長期間教育させ、難関試験に合格させることなど無理で、
資産も暇もない庶民にとっては無理ゲーですので、その数は多くはありませんでした。
大学寮や国学という、位階を取得するための公的教育機関があったのですが、そういうわけでここで学ぶのも貴族階級ばかりとなります。
次に高位階者の子孫に、自動的に位階が与えられる、
ようするに世襲により取得できる蔭位による方法がありました。
(厳格な能力主義だと、古代豪族の反発を招き、体制崩壊につながりかねないので古代豪族に世襲による官職を与え、懐柔するための方法だと思われます)
なら、貴族の子息であるなら、大学寮に行く必要もないため、真に勉学したいと思う物好き以外は行かなくなりました。
(源氏や藤原氏には子息を教育するための私的教育機関もありましたのでなおさら大学寮などに行く必要はありません。なお、源氏とは何か?については以下をご参照ください)
学問を修め試験に合格する科挙的な方は、平安時代の日本社会には馴染まなかったようで、律令制後期には、蔭位がほぼ全てとなりました。
科挙的なものは中国・朝鮮とは異なり、完全消滅することとなりました。
儒教思想が骨身に染みており、武門よりも文治を重んじる大陸では、科挙は20世紀初頭まで続きましたが、
儒教を形式的にしか取り入れず、その思想は地域性、地政学的なものからか結局は浸透せず、
また武家政権樹立以降、尚武の気風が優先した日本では早々に科挙的なものは消え去るに至りました。
このように、貴族階級は世襲により固定化・家業化されることとなりました。
また前述したように、律令制が完全崩壊した後には、位階や官職名は公家に献金すれば得られる実態の伴わない、
単なる名誉称号となり、
それどころか、戦国時代になると、武士達が朝廷に上奏することもなく、勝手に官職名を名乗ったりもしていました。
織田信長は『上総守』を最初自称していたのですが、
この官職は正式には親王(天皇陛下の嫡子・嫡孫)しか任官できないもので、
後からそれを知ったのか『上総介』に自称し直しています。
江戸時代になると、幕府が公家の官位とは別枠の
武家官位制という制度を設け、
位階・官職を得る場合は、幕府の推挙によるものとし、
幕府の奏上を受けた朝廷から勅許が下りることで、自称ではない正式な位階・官職が得られるという制度としています。