本質的でないことこそ本質だー読書感想「ゲンロン戦記」(東浩紀さん)
いっけん本質的でないことに本質が宿る。そのことを知るには行動しなくてはならない。「身体性」を得なくてはならない。批評家東浩紀さんの「ゲンロン戦記」は自身の過ちを率直に語ることで、こうした教訓を伝えてくれました。起業物語だけれど、起業家のためだけの本ではない。むしろ私たち読者に「観客」というあり方を示してくれる。本質に至る旅路へと連れ出してくれる一冊でした。(中公新書ラクレ、2020年12月10日初版)
経営の身体性
重要な一文は序盤で登場する。
本書ではいろいろなことを話しますが、もっとも重要なのは、「なにか新しいことを実現するためには、いっけん本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかりを追求するとむしろ新しいことは実現できなくなる」というこの逆説的なメッセージかもしれません。(p32-33)
本質的でないことこそ本質的。東さんがこの実感を得たのは、自身が立ち上げた「ゲンロン」社の経営を巡って数々の失敗をしたからだった。「本業」だと思っていた思想活動を重視するあまり、理想の言論環境を作ろうと注力するあまり、経営に必要な事務や経理がおろそかになった。
やがて自身で領収書の打ち込みを始めた東さんが見出したのが、経理は経営の「身体」である、ということ。この「身体性」こそ、「いっけん本質的でないことにある本質」の正体ではないか。
それはお金の流れだけの話ではなくて、そのときはじめてぼくは、ゲンロンの全体をしっかり掴むことができるようになったのだと思います。ゲンロンカフェだったら、このケーブルはどこにどうつながっていて、どんな意味があるケーブルか、配線レベルまでいちど完全に把握しました。業者の請求書も細かいものまですべて確認しました。面倒なことを人任せにせず、ゲンロンについてなら、なにを質問されても答えられる状態になりました。(p81)
一つ一つの領収書を繰ることで会社が見える。配線レベルで把握することで会社の実態が掴める。「手触り」が生まれる。
切り捨てること
これは、ただ単に「面倒なことを一生懸命やることが大切」ということだろうか?そうではない。東さんが別の文脈で「身体性」を語っている場所を見てみる。
それは、あるムックの出版で経費過多を起こした失敗を振り返った場面。東さんは30代だった自分が、大学で教えたりテレビに出たり、「あれもこれも、やったらできそうだな」という状態になっていたと反省する。
でもそれは勘違いです。「やっていけそうだ」と思うことと、現実に実現することはまったくちがう。やるべきことを発見するというのは、ほかの選択肢を積極的に切り捨てることでもある。30代のぼくは、たんにそれが怖くてできなかった。臆病だったんです。だから、「望めばなににでもなれる自分」を守るため、なにもかもできるふりをして選択肢を捨てずにいた。とても幼稚な話です。(p62)
「やっていけそうだ」と思うことと、実現することはまったくちがう。これを「身体性」という言葉で言い直してみるとすれば、現実の身体をもって実現できることは、空想の「やっていけそうだ」とは明確に異なるということだ。
選択肢を切り捨てること。それは、肥大化した「望めばなににでもなれる」を削ぎ落として、現実的で率直な身体を見出すことだと言い換えられそうだ。
経営の身体と、可能性を切り捨てた身体。これらを切り口に「いっけん本質的でないことにある本質」を眺めてみる。
すると浮かび上がるのは、私たちは「本質的」を考えるときについつい、身体を「装飾するもの」に目がいってしまうのではないか、ということだ。経営であれば理念、生き方においては可能性。「本質的だと信じるもの」はいつだって「服」であり、本当はその下に隠れた身体には、なかなか目がいかない。
だけど本質は身体に宿る。みすぼらしいとしても、私たちは身体をもってしか何かをなし得ない。些末だとしても事務なしで経営は成り立たない。私たちは身体を「いっけん本質的でない」と思ってしまう。見失ってしまう。
東さんは経営の身体を取り戻し、ゲンロンを立て直した。可能性を切り捨てて前進できた。私たちもまた、身体性を取り戻す必要がある。
身体性を得るために観客になる
それが、観客になることだと本書の後半で見えてくる。観客になるとは、読者が身体を取り戻すことだ。
東さんは「プロになれなくても観客になれる」と言う。
(中略)作品を発表しそれで生活するプロになることはできなくても、作品を鑑賞し、制作者を応援する「観客」になるのもいいではないか、ということです。
観客になるなんて負け組じゃないか、というひともいるかもしれません。けれどもそれはまちがいです。美術でもSFでもマンガでもなんでもいいですが、あらゆる文化は観客なしには存在できません。(p126-127)
これも身体性という言葉で紐解いてみる。
もしも、読者がプロを目指してなれず、それでもプロにこだわるとき。それは「プロになれない」という身体に目もくれず、「プロになれるかもしれない」空想にすがることになる。前述した通り、空想を切り捨てない限りは現実を生きることは難しい。先には進めない。
身体を起点にできない思いは浮遊し、手を離した風船のようにさまよう。やがてしぼむかもしれないし、沼に落ちてはいでれないかもしれない。あるいは、その思いは膿んでしまうかもしれない。「プロ気取り」として、誰かの作品をくさし、あてのない不満をぶつけてしまうかもしれない。
プロになるのではなく、観客になる。それは「いま、ここで」始められる。プロになれない自分。痩せ細った身体を見るのはつらい。でもそこから、手触りのある言葉で、地に足のついた思いで、作品に向き合える。
そう思ったとき、まさに「プロ」ではない1人として「観客」になりたいと思った。いまの自分の知の身体で、文化を創ることに関われるのならば、こんなに幸せなことはないと思った。
東さんの言葉が響くのは、まさに東さんも自分の身体に向き合ったからだ。それを直視する恥ずかしさ、つらさを率直に語ってくれるからだ。私たちを揺さぶる言葉はただの言葉ではないんだろう。身体から発せられた言葉が、また誰かの身体の中に響き渡るのだろう。
次におすすめする本は
東畑開人さん「居るのはつらいよ」(医学書院)です。沖縄の精神科でデイケアに飛び込んだ東畑さんが、大学で学んだセラピーがまったく通じない世界に直面し、それとは異なる「ケア」について知っていく物語。「ただ居るだけ」の重要さを語る本ですが、これまた身体・存在にまつわる話かなと思います。