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DENNYさん
2019年11月11日 11:35
平安の世の恋は、互いの顔も知らぬところからはじまる。 侍女や召人たちから、聞くともなしに聞く噂。 名も知らぬ姫君に、公達は名乗ることもせずに文を送る。時には歌を、時には一輪の花を添えて。 いつしか、互いに文を送り合うようになる二人。やがて、公達は姫君のもとを訪ねる。 御簾(すだれ)越しに二人は、言葉を交わし合う。幾度かの御簾越しの逢瀬の後、ついに姫君は御簾を上げる。 公達は、御簾の中に
2019年11月12日 07:55
平安時代、親子でもなければ、諱(いみな)を呼び合うことなどなかった。だから彼女も、「蔦葛の方」とだけ呼ばれている。 この時代、婚姻は通い婚であり、夫が妻の家に通うのが普通であった。そして男が、複数の妻を持つのも当たり前であった。 女の生活は、普通、実家に支えられているが、実家の助けを得られぬ女にとっては、夫からの援助が、唯一のたつきの道であった。 その夫の通いは、何ヶ月も前から途絶えている
2019年11月13日 09:59
明治になって西欧から持ち込まれるまで、日本にキスという概念は存在しなかった、と思われがちだが、江戸時代の春画には、キスの描写が頻繁に見られる。(ディープ)キスは、「口吸い」と呼ばれ、挨拶や愛情表現ではなく、性技の一つであった。 しかし、さらに遡(さかのぼ)った平安時代。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」 の歌で知られる、絶対権力者であった藤原道長の手紙には
2019年11月14日 09:28
俗に、「男は上淫を好み、女は下淫を好む」 と言う。 男は自分より身分の高い者に欲情し、女は身分の低い者に欲情する傾向がある、という意の言葉である。 上淫を好んだ男の代表としては、かつて自分の主君であった、織田信長の姪である茶々(淀殿)を第二夫人にした豊臣秀吉が挙げられる。 下淫を好んだ女の代表に挙げられがちなのは、「江島生島事件」で知られる、江戸時代の大奥の御年寄、江島であろう。彼女は
2019年11月15日 10:46
平安時代の、貴族の邸宅の屋内は、現代風に言うと、ワンルームマンションである。 だだっ広い一部屋を、「几帳(きちょう)」と呼ばれる、自立するフスマのようなもので仕切って使う。 寝室は、「御帳台(みちょうだい)」と呼ばれる、天蓋付きベッドのようなものの床に畳を敷き、その上で直に寝る。 その御帳台を室内と隔てるのが、「御簾」と呼ばれる簾(すだれ)である。 姫君が御簾を上げ、公達を招き入れるとい
2019年11月16日 10:26
乳房のことを「おっぱい」と呼ぶようになったのは、近世、だいたい江戸時代頃からのことであった、と考えられている。 語源は、「をを、うまい」という感嘆から来た、という説、「お腹いっぱい」の「いっぱい」が転じたとする説などがあるが、いずれにせよ、最初は幼児語であったものが、やがて大人も使うようになった、とするのが一般的である。 乳房を吸う時、大人の男も、子供に帰るのだ。 私にしっかりとしがみつ
2019年11月17日 12:03
平安の夜にも、照明はあった。台座に柱を立て、その上の油皿に菜種油を満たし、浸した灯心に火を点けて、夜の明かりとするのである。柱が高く、広い範囲を照らすものを高灯台、柱を低くして、手元を照らすものを、切灯台と呼んだ。 現代の照明はもちろん、ロウソクよりもさらに暗い明かりであったから、互いの顔もよく見えなかったであろう。だが、恋人たちには、そのほの暗さが、かえって好ましかった。 私に叱られたか
2019年11月18日 12:53
古代の日本では、おそらくは神話の時代から、女陰を「ホト」と呼んだ。字は御陰、陰所、女陰、含処、陰、火陰、火戸、火門など、様々な表記がある。この物語の舞台である平安時代には、「鮑苦本(あわびくぼ)」などとも呼ばれた。形状が鮑に似ているからであろう。 日本神話において、天照大神が天の岩戸に隠れた時、アメノウズメは「胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき」 つまり、乳と女陰を露わにし
2019年11月19日 12:07
平安時代、下人(召人)に、人権はなかった。下人は貴族の財産とみなされ、所有物である下人の生殺与奪の権は、その主人が握っていた。 ただし、財産であるがゆえに、下人を巡って争いが起きることもしばしばであった。他人の財産を傷つけることは、所有権の侵害だけでなく、名誉への侵害をも意味したからだ。 平安時代から室町時代にかけて、下人の所有権を巡るいさかいや、下人同士の争いをきっかけにした貴族(武士)同
2019年11月20日 14:27
「『古事記』に諾冊二尊が美斗能麻具波比(みとのまぐはい)を為し給へりと云ふ事あり。「美斗」は御所(みと)(寝室)にて、「麻」はうまく、「具波比」はくひあひ(交接)の意なりと云ふ」 神々がまぐわって、この国は生まれた。 太古、日本を造られたイザナギとイザナミが交わった時、まずイザナミの方から誘い、そのためにヒルコという異形の者が産まれたという。 私から誘うことで、二人の関係は、何か正しくない
2019年11月21日 10:33
「吸茎」(きゅうけい)とは、フェラチオのことである。他に「口取り」、「雁が音」、「尺八」、「千鳥の曲」などとも言う。 日本でいつ頃から、この行為が一般化したのかは定かではない。平安時代に書かれた「日本霊異記」には、天竺(てんじく、インド)でのエピソードとして登場するから、その頃はまだ珍しかったのかもしれない。いずれにせよ、江戸時代の文献には、普通に出てくるので、その頃には一般化していたのは確かで
2019年11月22日 11:14
基本的にワンルーム構造であった平安貴族の邸宅は、生活に便利なように、几帳をはじめとする、さまざまな屏障具(へいしょうぐ)で仕切って使われた。屏風や障子(現代の襖。木枠にはめ込んだり、自立する脚をつけたりして使う)は我々にもなじみがあるが、几帳は、せいぜい神社の拝殿で見たことがあるかどうか、というくらいであろう。 几帳とは、壁代(かべしろ)と呼ばれる帷子(かたびら)を衝立状にしたもので、わかりや
2019年11月23日 07:57
平安時代の女性の装束と言えば、まずは「十二単衣」(じゅうにひとえ)を想像されるであろう。袴、単(ひとえ)、袿(うちき)、打絹(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、裳(も)、唐衣(からぎぬ)と、重ねて着るので、十二単衣と呼ばれた。本当に十二枚着ているわけではない。 この十二単衣、またの名を裳唐絹(もからぎぬ)は正装であって、ハレの日や、宮廷に出仕する時などに、身分の高い女性が着るものであった。 平時の
2019年11月24日 09:52
「とりかへばや物語」とは、平安後期に成立した物語である。女性的な性格の男児と、男性的な性格の女児がいた。どちらが兄か姉かについての記述はないから、双子だったのかもしれない。 彼らはその性格のまま成長し、男児は女房として宮廷に出仕、女児も若君として宮廷に出仕する。そしてそれぞれ、正体を知った相手と恋に落ち、女児はついに身ごもってしまい、男児も正体がバレそうになって、窮地に陥る。 結局彼らは、互い