第一夜 蔦葛 後編
平安時代、親子でもなければ、諱(いみな)を呼び合うことなどなかった。だから彼女も、「蔦葛の方」とだけ呼ばれている。
この時代、婚姻は通い婚であり、夫が妻の家に通うのが普通であった。そして男が、複数の妻を持つのも当たり前であった。
女の生活は、普通、実家に支えられているが、実家の助けを得られぬ女にとっては、夫からの援助が、唯一のたつきの道であった。
その夫の通いは、何ヶ月も前から途絶えている。幾人もいた侍女や召人も、ひとり、またひとりと、蔦葛のもとを去り、最後に残ったのが、まだ十五にもならぬ、この少年、拾ただ一人であった。
まさか本当に湯浴みの支度を調えるとは思っていなかった。
「何分、慣れぬことにて、ゆきとどかぬことがあれば、ご容赦ください」
腰をわずかに覆った、湯文字一つしかまとわぬ私から、目をそらしながら、拾が言う。
私は、少し愉快な気分になって、湯に入る。
ちょっとしたからかいのつもりだったのだが、一条戻橋の下で私に拾われた拾にとって、私の言葉は絶対であったのだろう。
目を閉じると、強い風と雨の音が耳についた。
「嵐になったようですね」
「は。雨漏りなど、せぬとよいのですが」
こちらに背を向けたまま、拾が答える。
どんなにか、こちらを見たいであろうに、必死で背を向けている拾がかわいくて、私はもう少しからかってやりたくなった。
「髪を……洗ってくれぬか?」
「は……いや、しかし……」
よい、戯れじゃ。
そう言おうとした時、雷が鳴った。
「きゃあ!」
誓って言うが、私は雷に驚いたのだ。
「奥方さま、お戯れが過ぎます!」
気がつくと私は、拾の背中に抱きついていた。
あわてて離れようとした私の指が、硬いものに触れたのも、あくまでも偶然だ。
「あっ……」
殿方があの時に洩らす声を、まだ幼いとばかり思っていた拾が発した。
栗の花の香りが、かすかに鼻をついた。
「申し訳……」
ございませぬ、と言って私から離れようとする拾の手を、私は思わずとらえていた。