アレン・ギンズバーグ『吠える その他の詩』柴田元幸訳
アレン・ギンズバーグ詩集『吠える その他の詩』(柴田元幸訳)を読む。
1955年10月7日。アメリカ・サンフランシスコの小さな会場で開かれた、無名詩人5人による朗読会で、アレン・ギンズバーグはこの「吠える」第1部を朗読したという。
朗読会の翌年に初版1,000部で発行されたこの詩集は、ギンズバーグが亡くなる1997年までに米国だけでも80万部を売り上げ、現在は100万部を超えているという。
この詩を初めて聴いたのは、3年前。柴田元幸さんがパーソナリティを務めるラジオ番組で、柴田さん自身が朗読したのだ。「吠える」という詩は3部構成。その第1部だけだったが、およそ13分。いつもは柴田さんの低く落ち着いた声が、詩の始まりとともに熱を帯びる。低めのギアでアクセルを踏み、タイヤにトルクをかけて排気音を響かせながら力強く加速する感覚。もちろん息継ぎはする。だが、ペダルワークを感じさせずに爆音をあげて夜の乾いた大地を駆ける。そんな朗読だった。
毎週のように朗読会を開いている柴田さんのことだから、聴衆がいる会場ならば、柴田さんはギンズバーグを再現するどころか、ギンズバーグと化して力強く詩を読んだことだろう。そのときは、あくまでも録音されたラジオ・プログラム。でも、スピーカーの前で拳を握りしめ、こちらが息継ぎするのを忘れるかのように、そう、固唾を呑んで聴き入った。
本書の解説によれば、「吠える」はジャズのサキソフォンをイメージして書かれたという。なるほど、1950年代の、セックス、ドラッグ、アルコール、移動につぐ移動、不条理などを通奏低音に、一見するとバラバラな個々の体験を肯定することで、「生」を後付けする。ジャズの即興演奏、インプロビゼーションに喩えたわけだ。
そうとはいえ、註釈をつけるのは専門家に任せるが、先の引用で「ブレイクの光の悲劇を幻視し」とあるのは、イギリスの詩人であり画家のウィリアム・ブレイクを指す。ほかに「カナダとパターソンの両極へ跳躍し」とあるのは、生まれ故郷であるニュージャージー州パターソンのことであり、地元の名士である詩人のウィリアム・カーロス・ウィリアムズへの敬意を感じる。後に『シェルタリング・スカイ』のポール・ボウルズや『裸のランチ』ウィリアム・バロウズなどと合流するモロッコのタンジールも詩に登場する。
アメリカには長編小説が書けないのだというコンプレックスがあり、The Great American Novel(偉大なアメリカ小説)という概念に取り憑かれている。そんなことを文芸評論家で作家の丸谷才一が著書『文学のレッスン』で触れていたが、素人目からすれば、詩については、十分に流れゆく大河があるような印象も持つ。
「吠える」に続く「カリフォルニアのスーパーマーケット」では、ギンズバーグが尊敬してやまないアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンを描いていて、歴史的な詩人がいまを生きていたらという想像よりも、むしろギンズバーグがホイットマンを生きる、歴史を「思い出す」という詩に読める。「オルガン曲を書き写す」という詩は「吠える」とは対照的に、静かな時の流れがあり、饒舌ながらも自らの裡に問いかけ、思索し、たゆたう小品となっていて、実は気に入っている。
訳詩はもちろん、翻訳者の解釈や力量が詩を生かしもするし殺しもする。『吠える その他の詩』も既訳がある。柴田元幸さんの訳が良いかどうかは、わからない。しかし、声が聞こえる詩であることは確かだ。
ラジオで流れたのは確かに柴田さんの声である。しかし、それはアレン・ギンズバーグの声であり、彼が日本語で自分自身の詩を朗読しているのだとうそぶくことを、いちいち虚構だという必要もない。詩人の長田弘さんはいう。「見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ」。たとえ訳詩であっても、そして黙読であっても、ギンズバーグの声を聴くことが、この詩集の楽しみ方である。
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