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沈黙を言葉にする

経験を重んじよ。そのうえで自分の心に浮かぶ感覚を大切にせよ。信じるによせ、疑うにせよ、経験という現実を畏敬しなければ、現実そのものも見えない。その一方で、本当の経験の味わいなんて、実は解らない。すぐに分かるような経験は、大した経験ではない。

小林秀雄にとっての経験といえば、名文『美を求める心』である。

美しい自然を眺め、或いは、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、んとも言えず美しいと言うでしょう。この何んとも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えいと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直まっすぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。

『美を求める心』「小林秀雄全作品」第21集

美は経験であり、本当の美は、そう簡単に分かるものではない。だから人を沈黙させる。

それを批評に当てはめるなら、いくら現実を畏敬して、経験というものを重んじたとしても、言葉で表せないのなら、対象から価値を見出すことも、批判することもできない、そういう思いも生じる。言葉がなければ、批評はできないのだ。しかし小林秀雄は、この『美を求める心』で、批評と同等な考えとして、詩についての見方、考え方を述べる。

諸君は言うかも知れない。成る程、絵や音楽の現す美しさは、言うに言われぬものかも知れない。これを味わうのには、言葉など、かえって邪魔かも知れない。しかし、それなら詩というものはどうなのか、詩は、言葉で出来ているではないか、と。だが、詩人とても同じ事なのです。成る程、詩人は言葉で詩を作る。しかし、言うに言われぬものを、どうしたら言葉によって現す事が出来るかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した人を詩人と言うのです。

『美を求める心』「小林秀雄全作品」第21集

小林秀雄は、詩を書くような批評を書きたいと考えていた。「もし、ボオドレエルという人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろう」(『詩について』「小林秀雄全作品」第18集)と語っているように、ボードレールの影響が大きい。その点から考えるならば、ここに引いた『美を求める心』における「詩」を「批評」に置き換えても、十分に小林秀雄の意を尽くせるのではないだろうか。

批評家は言葉で批評を書く。しかし、言うに言われぬものを、どうしたら言葉によって現す事が出来るかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した人を批評家と言うのです。

小林秀雄にとって批評とはやはり「詩」だったのだろう。

(つづく)

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既視の海
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