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齋藤美衣『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』
大きく息を吸い、とめて、潜る。水底へ。記憶の底へ。意識の底へ。深く潜るには、ゆるやかに息を吐き続けなければならない。だんだん苦しくなる。目もぼやける。光が届かなくなり、見えるのは闇ばかり。でも、いつまでも、どどまってはいられない。いつかは浮かび上がる。望まなくても、ひとりでに。
摂食障害や発達障害の傾向、急性骨髄性白血病の経験、たたみかける希死念慮と自殺未遂を経て、「わたし」という深遠を綴った齋藤美衣『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』を読む。再読に値しない書物は初読にも値しない。未読の書物を横目に再読し、積ん読の山を見て見ぬふりをして三度読んで、ようやく自分の言葉で語る勇気を奮い起こしたのは、著者が「書く」ことをとおして自分という水底へ潜っていった営みに衝き動かされたからか。
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Ⅰ部から物々しい。深々と突き刺す「死にたい」の痛みに身を委ねたことによる、閉鎖病棟における4か月の措置入院の日々が語られる。また、14歳の春に発症した急性骨髄性白血病による「残された日々」や、摂食障害や発達障害における自分の身体性が、血の通った冷たさをともなって綴られる。歌集も出している第一級の歌人でありながら、筆者を知らずに本書を手に取ったことで、このⅠ部はずいぶん重みのある自己紹介だった。
さみしい、さみしい。すごく、さみしい。
胸が締めつけられるような響きでⅡ部が始まる。そのときの感情、心持ちが問いになり、考えて、答えて、揺れて、後戻りして、沈んで、見とおして、また新たな問いになる。言葉をつむぎながら、涙を流す。嘔吐する。生々しい語りとともに、思考も感情もあちらこちらに揺れる。何に向かって進んでいるのか定めていないから、「謝る」「許す」「触れる」「触れられる」などは幾度となく繰り返される。
水面に顔を出すきっかけとなったのは、「許す」をめぐる揺らぎから、「生きるとは、他者と共にあることだ」と考え、そこには「わたし」が必要だと気づいたこと。「わたし」を愛おしむべく、自分のために料理をつくる。自分が自分自身を大切にする営み。そこから筆者は生きることを見つめられるようになり、痛みではなく、自分の身体を感じることができるようになっていく。
哲学しているのだ。
哲学は、学ぶものではない。哲学するものだ。そして、悩むな。考えろ。考えて身についたものこそ、知識であり、智慧なのだ。いまの筆者とほぼ同じ年齢で夭折した哲学者・池田晶子のことばを思い出す。寄せてはかえす思索の波間を漂いながら、常に普遍や本質を追い求めていた池田晶子。「晩年」に著された『暮らしの哲学』では、すでに侵されつつある病身で死と生に思いを馳せるうちに、普遍的な概念を考えるだけでなく、個別の事象を味わうのが愉しくなったというのは、病からくる身体性にようやく「からだ」という実感を覚えていたからではないのか。
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筆者の、哲学をする経験や、哲学した形跡をたどることは、「許す」って何だろう、「待つ」って何だろう、自分は本当に「生きたい」と思っているのだろうか、など、筆者の思考に並走し、こちらも哲学する経験となった。あくまでも書物のなかの人、直接は面識を持てるはずがない著者であるにもかかわらず、この人と会ってみたい、話をしてみたい、共にありたいと感じた読書だった。きっと、それは実現するだろう。足を運びたいと願っていたトークショーなどではなく、思考の痕跡をたどることができる、読書という営みで。
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