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映画(ホラー以外)

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明滅する光と闇の記憶装置に関するてきとうな感想を、それっぽく書いているだけです。
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『ヘイトフル・エイト』 人を救うフィクションと人を殺すフィクション

『ヘイトフル・エイト』(2015年/クエンティン・タランティーノ) 【あらすじ】 悪い人たち同士で嘘をつき合う 「見知らぬ赤の他人同士が密室に閉じ込められる」映画というのは大抵の場合、事態は良からぬ方向へと展開していくものがほとんどだ。本作もその定型に当てはまる訳だけれど、まずもって「見知らぬ赤の他人同士が密室に閉じ込められる」というのは、つまるところ「映画館」のことだ。 当然、僕らは映画館でウソを眺めた後に、しっかりとそこから「脱出」することが可能である。そういった点

『全身ハードコア GGアリン』発、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』着

『全身ハードコア GGアリン』(1993年/トッド・フィリップス) 【あらすじ】 全裸になって大暴れしても笑われる 『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が日本で公開されるや否や、抗いようが無い形で本国での酷評を前提に「前評判通りつまらない」「そこまでつまらなくなかった」「酷評されてるけど面白かった」等という感想が飛び交っている状況があり、心底気持ちが悪い。 こういったバイアスはもの凄く不健全だなーと感じる派で、はっきり言ってしまうと、パンピーとかその他大勢とか大衆の意見とか

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』 悪のカリスマなんか存在しないから、ただの犯罪者だから、犯罪者の最期はこういうことだから、とひたすら訴える犯罪抑止映画

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(2024年/トッド・フィリップス) 【あらすじ】 悪いことをしたので裁かれる 誠実で覚悟のある映画だと感じた。全く嫌悪感は抱かないけれど、このビッグバジェットでこの構造、ヒットするはずがない……。 でも、作品のヒットとか観客の欲求とかを全て放棄して、同じ監督同じキャストで「作らなければけじめがつかなかった」作品、挑戦として漏れなく成功していると感じた。 一先ず、「ジョーカーは俺だ」なんて言っちゃうワナビーに対して、「絶対に犯罪なんかし

『ジョーカー』 優しさと可愛らしさの眼差しで撮られたはずの映画が、インセルからの過剰支持を受けるというジョーク

『ジョーカー』(2019年/トッド・フィリップス) 【あらすじ】 ピエロはつらいよ 教科書から抜粋したかのような模範解答的な狂気を以ってして、本作を評価する気は起きない。しかしながらこの映画には、ホアキン・フェニックスという生き物の怪演が記録されている。しかもその生き物の記録として向けられる視線が、あまりにも愛情の眼差しに溢れていて、そこに好感が抱ける。 端的に言って、自分には主人公アーサーが「可哀想」というよりも「可愛らしい人」として撮られているように感じられる。それ

『FYRE: 夢に終わった史上最高のパーティー』 あきらめられなかった人が見る地獄

『FYRE: 夢に終わった史上最高のパーティー』(2019年/クリス・スミス) 【あらすじ】 リア充によるリア充のためのリア充のパーティーが大失敗する。 「やり方が分かるからやるんじゃないでしょ、やりたいからやるんでしょ」という言葉は、岩切一空監督『花に嵐』での里々花の名台詞なのだけれど、この言葉は"まやかし"だ。 確かに、技術的に構築された映画よりも、生まれて初めてカメラを持ったかのような衝動のままに撮られた映画こそ真に傑作たり得る、という創作論には強固な美しさがある。

『首』 映画の「首」すらも斬首したかのような「失敗」に成功した嘲笑の傑作

『首』(2023年/北野武) 【あらすじ】 首の取り合いっこしていたらどんどん人が死んでいく 戦国版『アウトレイジ』を渇望する観客の期待に一切応えようとせず、芸術三部作(『TAKESHI'S』『監督ばんざい!』『アキレスと亀』)というリハビリを経た末に肩の力を抜いて『アウトレイジ』という娯楽映画を撮るも、再び『みんな〜やってるか!』で挑戦した「ビートたけし監督作品」に猛進する北野武の姿に虚しさを感じた。この"虚しさ"は『君たちはどう生きるか』を作った宮崎駿とニアイコールと

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 絶望の時代には、それ以上の絶望を

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年/庵野秀明、摩砂雪、前田真宏、鶴巻和哉) 【あらすじ】 目が覚めたらみんなめっちゃ怖い 新エヴァで唯一繰り返し観ているほど好きなのが『Q』。その理由はまず、旧エヴァ特有の病み感、真っ黒なドロドロ感、居心地の悪さみたいな鬱屈したヤバイ感覚に、本作が最も近いからなのだと思う。 あともう一つの理由としては、単純に作画のレベルがシリーズで最も高い。死ぬほど画が美しいアニメーション。 『破』でせっかく新しいことをしたのに結局鬱アニメに戻

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』 アスカ搭乗時に映画館で「嘘でしょ……」とつぶやいた女の子は元気にしているだろうか

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年/庵野秀明、摩砂雪、鶴巻和哉) 【あらすじ】 俺たちの知ってるエヴァじゃない?! 誤解を恐れずに書いてしまうけれど、それまでの旧エヴァの惣流・アスカ・ラングレーという人は、かなり"病みがち"なキャラクターだった。ツンデレでありながらメンヘラ。自信過剰でありながら自己嫌悪に陥る。外面と内面のアンビバレントに引き裂かれながら嘆き苦しむアスカの姿を見ているのは、エヴァファンとは言えど辛く悲しいものがあった。 それに比べて、式波アスカ

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』 この時は、まさか完結まで14年掛かるとは思いもしなかったよ、綾波ィ!

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007年/庵野秀明、摩砂雪、鶴巻和哉) 【あらすじ】 エヴァの作画が変わる 『序』に関しては、めちゃくちゃグラフィックの美しさが向上したのは確かだけれど、テレビシリーズ及びヤシマ作戦までの総集編という印象が個人的にはどうしても強かった。 仮にも、旧エヴァを認知していない人にとって、『序』は一本の映画として歪な作品になっているはずだよなー、くらいには思っていた(ストーリーテリングとして)。劇場鑑賞時も「おさらいあざっす、で、破の予告早く

『アイ・アム・レジェンド』について話すことよりも『コンスタンティン2』がどうなるか予想しようよ!と話を逸らしがち

『アイ・アム・レジェンド』(2007年/フランシス・ローレンス) 【あらすじ】 地球最後の男がワンちゃんと散歩する。 我らが大傑作『コンスタンティン』を監督したフランシス・ローレンスの待望の次回作がコレである。当時、劇場で父親と観た時はあまりのトホホ感にお互いが沈黙した。父親は「お前もう世界救わなくていいわ」と、地球救いがち男ことウィル・スミスへの苦言を漏らしていた。そんなことを思い出しながらも、ともかく、あんなカッケー映画を撮った人が、なんで次作でこんな底抜け超大作を撮

『玉城ティナは夢想する』 もしかすると、「撮りたい」は「なりたい」というあこがれなのかもしれない。

『玉城ティナは夢想する』(2017年/山戸結希) 【あらすじ】 玉城ティナになりたいと妄想する バイオレンス映画。皮肉ではなく、これは暴力についての映画だ。「今そこにある美に対してカメラを向ける」ということの暴力性を山戸結希は認識しつつ、欲望のままに被写体を「傷付ける」。そして、傷付ければ傷付けるほどに、被写体・玉城ティナの刹那的な美しさが増すことも熟知している。 激しいカット割はまさしく被写体そのものを「解体/切断」していて、カメラは「ナイフ」のようである。「ポップで

『メリー・ポピンズ』 スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスな映画と、カウンター・カルチャーとしてのメリー・ポピンズ

『メリー・ポピンズ』(1964年/ロバート・スティーヴンソン) 【あらすじ】 空からメリー・ポピンズが降りて来る 星10。いつ何度観ても圧倒的に素晴らしすぎる、愛すべき大切な一本。 とにかく「映画が喜んでいる」という楽しさでみなぎっている。ほとんどドラッグ的な幸福感の連べ打ち。ジュリー・アンドリュースは生きて歌って踊る「幸福」そのもの。ウルトラナイスガイの我らがディック・ヴァン・ダイクは、彼が楽しそうに思い切り踊っているだけで、涙が出るような感動が湧き上がる。本作が名作

『オースティン・パワーズ:デラックス』 バカでアホでどーしようもない映画には、それだけで価値がある

『オースティン・パワーズ:デラックス』(1999年/ジェイ・ローチ) 【あらすじ】 スケベでアホなスパイが再びスケベでバカなことをする 人間なんか平等にクソで、平等になんの意味もない。そして、そんな人間の100年も無い人生なんてクソまみれだ。苦しみや絶望が止まない雨のように降り続け、欺瞞と嘘で溢れ返った最低の世界で、ぼくらは今日も「クソッタレが」とつぶやきながら、腹にクソを溜め込んで生き続ける。 しかし、どんなに辛いときにも、芸術や表現はすぐ隣でぼくらに微笑みかけてくれ

『突然炎のごとく』 恋愛の成就よりも、恋愛の破滅を描くために映画は存在している

『突然炎のごとく』(1962年/フランソワ・トリュフォー) 【あらすじ】 男二人、ひとりの女に出会い、勝手に破滅してゆく 恋愛映画ではなく、男と女の戦争の映画。『死刑台のエレベーター』や『恋人たち』で、男を破滅させる女性を演じ抜いてきたジャンヌ・モローが「お前ら男の考えるステレオタイプな恋愛観なんかに負けてたまるか!!」と闘いを挑み続ける。もはやホラー。トリュフォー他作品だと『アデルの恋の物語』と同じおそろしさがある。 "男のように"髭を描いたカトリーヌが、男二人とかけ