『オースティン・パワーズ:デラックス』 バカでアホでどーしようもない映画には、それだけで価値がある
『オースティン・パワーズ:デラックス』(1999年/ジェイ・ローチ)
【あらすじ】
スケベでアホなスパイが再びスケベでバカなことをする
人間なんか平等にクソで、平等になんの意味もない。そして、そんな人間の100年も無い人生なんてクソまみれだ。苦しみや絶望が止まない雨のように降り続け、欺瞞と嘘で溢れ返った最低の世界で、ぼくらは今日も「クソッタレが」とつぶやきながら、腹にクソを溜め込んで生き続ける。
しかし、どんなに辛いときにも、芸術や表現はすぐ隣でぼくらに微笑みかけてくれる。待ってくれている。歓迎してくれている。そして、このクソみたいなすべてを、一瞬だけでも忘れさせてくれる凄まじいパワーを宿している。パワー。オースティン・パワーズ。
ぼくは辛いとき、絶望の淵に追いやられたとき、なにもかもブチ壊してやりたいと拳を握るとき、もういっそ死んでしまいたいと嘆き悲しんでいるときに、いつも必ず本作のオープニング・クレジットを観るようにしている。これは映画を利用したライフハックだ。
『オースティン・パワーズ:デラックス』のオープニング・クレジットは、あまりにもバカで、あまりにもアホで、あまりにも美しい。
前作であんなに意気投合して結婚までしたヴァネッサが、本作の冒頭で実はオッパイマシンガンロボットのフェムボットだったと発覚し自爆する。最愛の妻を目の前で喪ったオースティンは、しかし涙ひとつ見せずに「ちゅーことは、独身に戻れたってことじゃ〜ん!いえ〜い!」と裸一貫で文字通りに狂喜乱舞する。
映画をクリエイトしたスタッフやキャストの名前は、次々とオースティンの股間を隠すためだけに表示される。最終的にはシンクロナイズドスイミングを披露しながら、アホみたいにギンギラブルーのタキシードを着たオースティンが登場してフィナーレを迎えるのだ。
そう、これも人間の正体であり、人間の生き様だ。人間は、どんな絶望に直面しようとも、それを乗り越えられるだけのバカな頭もちゃんと持っている。悲しみ以上のユーモア。大の大人が、ここまで真剣にバカをやってくれている。
クソみたいな人生をペシミスティックに嘆き悲しむよりも、全裸で一瞬一瞬を笑い飛ばすような人間に、ぼくはなりたい。自滅なんかしてたまるか。
そして、バカでアホでどーしようもない映画には、それだけでちゃんと価値があるということは強く述べておきたい。