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川島結佳子『アキレスならば死んでるところ』(現代短歌社)

 第二歌集。2020年3月以降の365首を収める。同時期に出版された歌集は大体コロナ禍の歌を一部に収めていることが多いが、この歌集は一冊丸ごとコロナ禍の時期と被るように構成されている。もちろん意識してのことだろう。歌にユーモアを取り入れながら、日常生活の中にある違和感や心に刺さるできごとを映しだす。自虐ネタで笑いを取るように構えながら、普通の生活の普通に嫌な面がうつり込むように、一首が作られていると思った。

マンモスにすらある勝手に期待され勝手にがっかりされることが(P8)
 ナショナルジオグラフィック「マンモス再生は、どこまで現実に近づいているのか?研究者が解説」の記事からの引用を詞書にして一連が構成されている。要約すると、最新の技術を以てもマンモスの体細胞クローン個体作製はできない、という詞書だ。科学者たちは勝手にクローンが作れると期待し、できないとなると勝手に失望した。マンモスにとっては知ったことではない。人間にはそういうことはよく起こるがマンモスにすら、という感慨だ。マンモスの名前が「YUKA」で、作者の名前に近いことから親近感を持って記事を読んでいる。とても面白い連作だ。

見えないがあるかもしれないウイルスと見えるがないかもしれない星と(P13)
 コロナ禍でのウイルスに対する恐怖の感情が蘇る。見えない、ということがこれほど不安を掻き立てるとはだれも思わなかったことだ。あるかも知れないウイルス、と言って目を凝らす時、主体の思いは目に見える星に至る。これらの星は今目に見えるが、何十光年という時間をかけて地球に光が届くまでの間にもう消滅しているかもしれないのだ。星は小さく見えるが、巨大なもので、ウイルスは目にも見えない極小なものだ。その対比が眼目だ。

シャーペンの先から芯を入れる眼をして蜜蜂を食おうとする猫(P49)
 寄り目になっていることの比喩だろう。シャーペンという省略した言い方や、みんなしているけどあまり歌に詠まれない「先から芯を入れる」動作を使った比喩が面白い。猫はちょっとおっかなびっくりなのだろうか。

イルミネーションの撮影中に写り込みすっと消される私の横顔(P55)
 人の撮影中の画面に写り込んでしまった主体。その横顔は撮影者によって「すっと」消される。何も無かったかのように、誰も存在しなかったかのように。そんな風に扱われてしまう自分の横顔。価値の無い、むしろ邪魔なものとしての横顔。もちろん自分が逆の立場なら、知らない人の横顔なんて一瞬で消すんだけれど。

五月雨式とはまさにこのこと咳は昨日喉の痛みは今日追加され(P85)
 「今日は喉が激痛」という詞書のついた一首。コロナに感染した自分を観察しながら詠う一連。ものすごい体調不良のはずなのだが、そこで観察眼を働かせてしまうのが歌を詠む者の業だろう。「五月雨式」という言い回しにしても「今の自分の状態こそ五月雨式なんだ」と語句的に分析してしまうのも業の一つだろう。

磨り減ったビーチサンダルで踏んでゆく娑婆の横断歩道は熱い(P86)
 病後にやっと外出できた時の歌。病気で長く療養して、久しぶりに外出することを確かに「娑婆に出る」というが、コロナ罹患の隔離期間は長かったので、より「娑婆」の一語が似合う。磨り減って薄くなったサンダルで歩いてゆくと横断歩道の凹凸の差も熱さもじかに足に当たってくる。サンダル同様、主体も病気で磨り減っているのだ。

足場悪くないのだろうか葉の裏にある空蟬は葉とともに揺れ(P89)
 あるある、と言いたくなる一首。木の幹などにがっしりすがって羽化するのが通常だと思うが、時々ひらひら風になびくような葉っぱの裏に空蝉を見かける。そこで踏ん張って羽化できたのかな、と余計な心配をしたくなる。

指輪ではなく給料三か月分のインプラントを私は私へ(P105)
 婚約指輪のダイヤモンドは給料三か月分、という神話ができたのがバブル前後の頃だろうか。当時は芸能人の婚約披露会見で示されるダイヤの大きさが話題になったものだった。今ではこの歌のようにネタでしか使えない。給料三か月分と言っても指輪ではない、誰かがくれるのではなく、私が私に贈る。生きていくためのプレゼントとして。「私は」の「は」の助詞遣いに屈折がある。他の人「は」どうしてるか知らないけれど、私「は」私へ贈る。これが現実なんだ、という思いが伝わる。

仮死状態から目覚め始めるジュリエットみたいに切れる麻酔のじわり(P127)
 ロマンチックな『ロミオとジュリエット』も作者の筆にかかると戯画っぽく描かれる。インプラントの手術だから部分麻酔だろうが、その麻酔が切れてくると痛みが徐々に伝わってくる。麻酔が「じわり」と切れていく様子が詠われているが、「じわり」と痛みが広がる感覚も重なる。

わたしは寝そうなわたしの身体を操ってお弁当箱を洗う夏の夕(P129)
 こういうことって毎日起こっていると思う。寝そうだし、寝てしまいたいのだけれど、何とか自分の身体を操って最低限の家事をこなす。寝てしまったら結局後でもっとしんどいのだから。上句の言い回しが絶妙。確かに自分で自分の身体を「操って」いるなと思う瞬間はよくある。

現代短歌社 2024.6. 定価:2000円+税

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