門脇篤史『自傾』現代短歌社
第二歌集。身の回りのものを丁寧に描写しながら、事物の別の面を浮き彫りにする。冷静で知的な筆致でありながら、どこか抑えても抑えきれない感情がその下にあることを感じさせる。突出した力を感じる一冊。短歌を読むことの喜びを感じながら読んだ。
手放すと決めつる詩集を読む指にあはくまつはるとほき時間よ(P12)
もう手放すと決めた歌集をもう一度読み直している。その時ページを繰る指が遠い日の遠い時間に触れるように感じる。それもごく微かに。本を手放すのはなかなか決心がつかない。それを読んだ時間が内包されているからだろう。
人生の目標を問ふ質問に良い歌を作りたいとは言へず(P18)
おそらく問うている人は、一般的な社会で生きる上での人生の目標を聞いているのだろう。そこは概ね資本主義の概念が支配する社会で、その頂点を極めたいのか、ほどほどでいいのか、あるいは全く逆方向を目指すのか、どれにしても「良い歌を作りたい」というのは適切な答えではないのだ。そう答えてしまった、何度かの苦い失敗の後にたどり着いた諦念なのだ。
月かげのやはきを浴みてマルボロの先からわれに火のにじり寄る(P25)
柔らかい月の光を受けながら煙草を吸っている。事実はそれだけなのだが、月の光を浴びている火が煙草の先から自分の口に、顔に、身体に向かってにじり寄って来ると感じている。もちろん火が煙草を吸っている人に到達することはないのだが、火と主体が一本の煙草を挟んで、お互いを意識し合っているような印象を受けた。
昼食にぬるきスープを飲み干せり誰かの生の端役を生きて(P30)
社食での昼食だろうか。大量に作られた本日のスープはもうぬるい。しかし午後からの仕事に備えてそれを飲み干す主体。自分の生を生きている実感が乏しく、ドラマで言えば、他の誰かが主人公で自分はその端役なのだと感じている。その気持ちが覚めたスープと呼応する。
いくつもの狭き水面を閉ぢ込めて自動販売機のひかりかそけし(P44)
自動販売機の中にはたくさんのペットボトルや缶の飲料が入っている。選ぶ際の見本の飲料を見ている時、お金を入れてそれを取り出す時など、自分が関わる時に商品を意識する人は多いが、買われるのを待っているストックを意識するのは作者の眼の力だろう。さらに自販機の中にある缶やペットボトルではなく、その水面を見る。表面的には見えない物を見る作者の力を、そこに感じる。
画家の絵は色をかへつつしづやかに死期に向かひて並べられをり(P51)
美術展の作品を見ている主体。おそらく一人の画家についての展覧会だろう。その場合、作品は普通時系列に並べられる。その画家の作品は少しずつ作風を変え、色を変えながら、次第に死期に向かって並べられている。展覧会は、死んだ画家が多く扱われるから当たり前と言えば当たり前なのだが、こうして言語化されると、観客が見ることによって、ある人間の生の軌跡が一つの物語として消費されていることが浮かび上がる。寒々とした感慨を覚えた。
ラーメンにのりたる角煮のやはらかく夢なく生きて生はしづけし(P88)
贔屓にするラーメン屋の閉店を詠った一連。一首前には希死念慮のあった日にラーメンと唐揚げを食べた歌が、一首後には「角煮」を「豚の死」と思いつつ味わう歌が並ぶ。そうしたかなり強い感慨を持った歌に挟まれた掲出歌には静かな境地が感じられる。夢も無く、ただ静かに淡々と生きていても、日々の食事には励まされたり、冷静さをもらったりする。食べなければ生きられない身体。何の夢も無くただ食べて生きているだけの毎日。大多数の人にとって生はそういうものだが、意識はされていないのではないか。意識した者だけに訪れる、深閑とした境地。
いまわれをしんと囲める白壁に釘打つために絵を飾るべし(P107)
白壁は実景だろうか。もしかしたら壁はあるけれど「白」では無いのかも知れない。「白」ということによって、中にいる「われ」に対する圧迫感が高まる。普通は壁に絵を飾るために釘を打つが、この歌では釘を打つために絵を飾る、という逆転の発想が語られる。自分を圧迫してくる白い壁に何らかの対抗をしたい。釘を打つなどして、白壁に亀裂を入れたい。白壁は実景かもしれないし、主体を取り巻く、強い圧を持つ状況の喩かもしれない。あるいは実景かつ喩かもしれない。
iPhoneの画面に光る歌ありて結語の助詞をこの世から消す(P145)
iPhoneに発想した短歌を打ち込んで、メモ代わりにしている。ある歌を推敲する過程で結語の助詞を削った。それだけの動作なのだが結句がとても強い。ノートにメモ書きした文字の上に線を引いて消しても、たとえ消しゴムで消しても、何らかの痕跡は残るが、電子機器の画面から消したものは、本当に跡形も無く消えてしまう。この世から抹消されると言ってもいい。人生の一瞬一瞬がその場で消えていくことに繋がるようにも感じた。
指先はあたたかく冷ゆ釉薬のあをく輝く碗に触るれば(P170)
陶器に触れている指。土物の手触りは、現実には冷たいが、イメージとしてどこか暖かみがある。「あたたかく冷ゆ」が言い得ている。釉薬の色も、その輝きも眼前する。物を描き、体感を描いて、碗を愛でる主体の心情を浮かび上がらせている。
現代短歌社 2024.8. 定価:2700円+税