塚田千束『アスパラと潮騒』(短歌研究社)
第一歌集。短歌研究新人賞受賞作を含む。帯文に「医師として、母として、娘として、妻として」とあるように作者の様々な面が歌として結実している。特に医師の歌に惹かれた。医師として死を意識した歌に現実的な手触りがあった。またそれらの歌と母としての歌が絡み合う。働きながら親であり子であり配偶者の妻である。日常を続けるためにもがき続けるかのような歌に心を惹かれた。
死にづらき世の中と思うあじさいは枯れたら首を切り落とすまで
医師としての歌と読んだ。延命治療が発達するにつれ、人は死にづらくなっていく。機械に生かされて延命されている例もあるだろう。その反面、あじさいなら枯れたら首を切り落とすまでだ。そうではあるが、人の頭にも見立てられるあじさいの首を切り落とす、という表現に少し戦慄を覚える。
弱者にも強者にもなるベビーカー押して歩めば秋桜震え
場合によっては弱者にもなり強者にもなるベビーカーというもの。回りに気遣われることもあれば、狭いところを通る時は舌打ちされたりする。親はどちらにもなりうる覚悟を持って外出しなければならない。押して歩く時、周りのコスモスが振動に震えるように思うのだ。
揺れながら揺らされているような子を包む腕あれ心あれ、あれよ
子供を寝かしつける時に抱いた子を揺らす。子供は揺らされるようでいて自ら揺れているようでもある。そんな子供を包む腕があってほしい。心があってほしい。最後の「あれよ」で強く祈るように詠う。また、「揺れながら」「揺らされて」の似た音の繰り返し、「あれ」の繰り返しが子守歌のリフレインのようにも響く。
ホーローの容器に蒸し鶏ねむらせて死とはだれかをよこたえること
これも作者の医師という職業を考えると怖い歌だ。ホーローの容器に蒸し鶏を入れる。料理の場面だが、鶏は死んだものだという把握がある。鶏に限らず、…人間でも…誰かを横たえることは、その誰かの死を意味する。日常の場面にふと入り込む死への意識が可視化されている。
摑み取るものほかすべて捨ててゆく灯台暗い水面をなでて
灯台の光が水面をなでる時、光の届かない水面を照らすことができない。光の当たるところだけを照らす。それが上句の主体の行動に重なる。欲しいものは掴み取る。しかしそれ以外のものは全て捨てざるを得ない。灯台の光が巡るように、すばやく、潔く、判断して、掴み取りたいもののみを掴み取るのだ。
常勤とならべば半透明の我 通園バッグが首にからまる
育児のために時短勤務にしているのだろう。何も恥じることはない、子供が成長すればまた常勤に戻ればいいのだから。理屈はそうなのだが、どこか引け目を感じてしまう。常勤の同僚は充実してみえる。その人たちと並んだ時、自分の身が半透明であるように感じるのだ。子供の通園バッグも、子に持たせていたら時間がかかるので、母である主体が首にかけている。そのバッグが自分の首を絞めるような錯覚に陥ってしまうのだ。
ライフルのかわりにあまたチューリップ抱けば ここが最前線よ
働く日々はライフルを抱えて走り回っているような日々だ。しかし子育ての時はそれではだめだ。子供にはやさしく、花束でも抱くように接しなければ。それは優雅でゆとりのある生活ではない。別の意味での最前線なのだ。チューリップを子育ての象徴と取って読んでみたが、個人の生活の何か大切なものとしても読めると思う。
ひとりの生、ひとりの死までの道のりをカルテに記せばはるけき雪原
カルテに記される「ひとりの生」とはイコール「ひとりの死までの道のり」なのだ。私たちは皆死までの生を毎日生きている。普段は意識されないが、カルテというものに記された時、道のりははるかな雪原のように、きびしく、遠いものとして知覚される。
うまれかわったらやさしくいきる草花の名前すべて覚える
かなりの破調。うまれかわっ/たらやさしく/いきる草/花の名前/すべて覚える、と五六五六七で読んだが、もっとざっくりと「~いきる」までを上句、その後を下句と読んだ方がいいとも思う。生まれ変われないことが前提にあって、今やさしく生きられないこと、草花の名前をすべて覚えるようなゆとりが生活にないこと、が少し辛い気持ちとともに想起されている。
ママが泣いちゃうからねと添い寝され川底ねむる小石みたいだ
これも初句二句がひと塊になった歌。ママが泣い/ちゃうからねと、と五六で取ってもいいのだが、十一の塊で捉えた方がいいように思う。本当はこちらが添い寝しているはずだが、母の辛い思いを感じ取った子に、添い寝されているかのような主体。子供と並んで眠る時、川底の小石のようだと自分たちを喩える。子供の優しさは真の優しさであり、その優しさに読者は心を打たれる。
短歌研究社 2023.7. 定価:本体2000円(税別)