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吉川宏志『雪の偶然』(現代短歌社)

 第九歌集、555首を収める。2015年から2017年にかけての連載作品が主となっている。雑誌連載の連作という性格上か、全体に時事詠が多い印象だ。時事詠、必ずしもイコール社会詠ではないのだが、その時代を詠うことによって記録されていくものがあることが分かる。時代の持つ感情というものを残すには短歌は適した詩型ではないかというようなことも考えた。また、この作者の特徴である、自然を精緻に描写する手法にも引き続き注目しながら読んだ。

ゆうぐれはどくだみの香の濃くなりて蛇腹のような石段のぼる
 源実朝の墓を訪ねた一連の最初の一首。夕暮れの時間帯になり、どくだみの香が昼間より濃くなったように思える。香りが濃く漂う中を蛇腹状の石段を登って行く。「のぼる」の主語は「どくだみの香」と「主体」の二通り考えられるが、「主体」と取った。上句と下句で主語が入れ替わったというより、上句も主体の体感を表していると取った。
 
人々は知らなかった それは嘘でありまた正しかりきナチスの世にも
 イエスを知らないと言って裏切ったペテロを下敷きに、ナチスの横暴を知らなかったと言って許してしまった人々を描く。さらにその上に現代の日本の政治の現状を重ねているのではないか。一首前の「人々はあまり知らぬまま決まりしと後(のち)の歴史は書くか 書かれむ」が日本の法案の通過を指しているように読める。それが一番言いたかったことかもしれない。聖書の時代→ナチス→現代の日本、と人間のすることが変わっていないことを表す一連だ。

ミニカーで遊びつつふと上げた顔 そんな遺影が灯のなかにある
 幼い子の葬儀に参列した一連。無心で遊んでいた子が何かの拍子にふと顔を上げる。そんな一瞬を捉えたかのような写真が遺影に使われている。おそらくまだ深い喜怒哀楽を知らず、ただうれしい・悲しい、機嫌がいい・悪いぐらいの違いしかないほどの年齢だったのだろう。強い感情を持たない黒い丸い目。誰の記憶にもある、幼い子のあどけない顔が、脳裏に浮かび上る。

溶けてゆく蠟にみずからを映しつつ炎は立てり死とのさかいに
 上の一首に続く歌。おそらく通夜の席で蠟燭が灯されている。その蠟燭の火は溶けてゆく蠟に自らを映している。蠟燭本体に燃える火が映っている。その炎は死んでしまった子と生きている我々の間を隔てるように燃えている。生と死の境目で蠟は自らの身体を燃やし続けるのだ。

白い島が浮かべるように顔はあり菊入れてゆく棺のなかに
 これは主体の母の葬儀の場面。最後のお別れの時に棺の中に近親者で花を入れてゆく。最近は色々な花を入れるようになったが主だった花はやはり菊。棺中が菊で覆われて、顔だけが白い島のように菊の中に浮かんでいる。病にやつれた死者の顔は死化粧が施され、生きていた時よりも白い。「島」という比喩、「顔はあり」という描写に冷静さを感じる。

貧しくなりされどもかつての貧しさに戻れぬ国よ川に降る雪
 日本は戦後の復興さらに高度成長期を経てバブル期に空前の好景気を迎えた。バブル崩壊後は、その頃に比べれば貧しくなったと言える。ただ、種々のインフラの整備などから考えると、かつての貧しさとは質が違う。現在の日本人はバブル以前の、あるいは高度成長期以前の貧しさにもう適応することはできない。川に降っては溶けて流れて行く雪のように、世代を超えて積み重ねることができない何か、流すしかない何かを主体は感じている。

鳥が落とす花もみずから落ちる花も 敷石道(しきいしみち)に陽の差している
 敷石道に花が散っている。その花のうちのあるものは鳥が落としたものであり、あるものは自ら落ちて散った花だ。どちらの散り方であっても道の上に落ちてしまえば同じだ。あとは枯れるのみ。敷石道に陽が差して、おそらく鳥が枝を移る音も聞こえるのだろう。

萩の寺に行きて帰りし二時間のそれも旅ではないか 夕月
 旅とは日常から離れ、日常の生活を送る自分を違う視点から客観視することでもある。それならば萩の寺に行って帰った二時間も旅と呼べるのではないか。語りかける口調の「~ではないか」が強い。語りかけられた夕月が空に浮かんでいるのが見えるようだ。

ひよこを機械でつぎつぎに潰す映像が俺のスマホに流れ着いてた
 この歌で始まる連作「人形器官 悪について」は問題作だと思う。ひよこを潰す映像と、続くミンチの歌から、従軍慰安婦の歌へと歌は続く。人間と人間との触れ合いとしてではなく、身体の器官と器官の触れ合いでしかない性行為。相手の顔は不要で、人形だと思ってする性行為が描かれる。従軍慰安婦の像に見られているのに、その像から顔を隠そうとする人々を詠った歌「朝鮮の少女の像を隠す 否われらが隠れているその眼から」で一連は終わる。この作者には稀な「俺」という主語が一連に使われているのが、作者と主体との距離を感じさせる。

桜から出(い)でて桜のなかに入る橋が見ゆやがて我を乗せたり
 川岸を歩いていると、両端が桜で覆われている橋が見えてくる。桜の中から現れて桜の中へ消えているような橋だ。そしてその橋は間もなく主体を乗せた。主体が乗ったわけだが、橋を主語にして、橋が主体を乗せた、と表現することによって、主体の意志では無く、橋が主体を招いて乗せたように思える。風景の中に溶け込んでいく歌だ。

現代短歌社 2023.3. 定価 本体2,700円+税

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