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逢坂みずき『昇華』(短歌研究社)

 第二歌集。2020~2023年の作品を集める。第一歌集では東日本大震災での被災についてはほとんど描かれていなかったが、震災の記憶は常に歌の底にある。それを抱えながらも主体は、現代の若者に共通項の悩みや喜びに向かい合う。時に真面目に時にユーモアを交えて、毎日の生活を歌にする。ストレートな語り口でありながら、視線は深いところに届いているのだ。

思っても言ってはいけないことがある思ってもいけないこともたぶんある(P14)
 上句は多くの人にとってその通りだろう。それを守るからこそ社会生活が成り立っているのだと言える。しかし下句はどうか。そこに気づく人は少ないかもしれない。心の中だから別に誰にも気づかれるわけではない、とばかりに、自分や他人に関する罵り言葉を思っている。ふとそれが「思ってもいけないこと」だと気づく瞬間が誰にでも訪れるとは限らない。

褒められるのが好きだっただけだった一人前のパスタを茹でる(P16)
 何か人のためになること、いわゆるいいことを一生懸命やっていた主体。いい人と思われて自分もそう思っていたけれど、ある瞬間気づく。自分は心からそうしたかったわけではなく、単に褒められたかっただけだった。今、一人分のパスタを茹でながらそう痛感している。結局まず自分一人が一人で満たされることが必要だと思いながら。

たちあおい 比べるなって言いながら一番比べているのはわたし(P27)
 太い茎を駆け登るように咲く立葵。下の方は大きい花で上に行くほど小ぶりになっていく。そんな花の大きさを見比べながら、誰よりも人と人を比べているのは自分なのだと主体は実感する。おそらく人と自分を比べているのだろう。優越感も劣等感もありながら全部同じ花なんだという思いもあるのだろう。

友の子の写真にうつり込んでいる正常新生児科という札(P91)
 フィルム写真の頃はフィルムが安くなかったことから、一枚一枚の写真は慎重に撮られていた。「うつり込む」という語は、誰もがケータイで、フィルム代など気にせず、気軽にどんどん写真を撮るようになってからよく言われるようになった言葉だ。そこには写そうと意図しなかったものが不用意に「うつり込む」。「正常」新生児用の科があるということは、そうでない新生児用の科があるということだ。どこかに辛い思いをしている親がいるということなのだ。

海が近い山が近い蟬の声が近いわたしはここに住んでいたのか(P114)
 都市部を離れて、故郷に戻った主体。都会から帰って来ると自分の生まれた場所の自然の豊富さに圧倒される。海も山も近く、蟬の声も肌近くから聞こえて来る。ここが自分の原点だ、もう一度ここで生活してみよう、という決心を後押ししてくれるような自然の風景だ。故郷の人間関係は暖かいけれど窮屈でもある。自然は人間に無頓着にいつもそこにあるのだ。

津波注意報解除になって二時間後もう海岸で働いている(P168)
 他の歌に自分は「ウニ屋の娘」という表現があるが、帰郷後はホタテや牡蠣などの養殖もしている父と共に働いているようだ。東日本大震災の余震と言われる地震は度々起きており、十年後の2022年3月にも大きな地震があった。その地震を詠った一連「コンチクショー 二〇二二年三月の歌」より。津波注意報解除の二時間後、ほんのさっきまで津波の恐怖におびえていたはずなのに、もう海岸で働いている。あるいは働く方が自然だから、あるいはいつものように働らいて自分を落ち着かせているのかもしれない。事実を詠って余白を読者に委ねている。

地震来るたびに地震が怖くなる心臓鍛えておかねばならぬ(P169)
 同じく「コンチクショー」から。地震が頻発する地域に住んでいるゆえ、地震が来るたびに慣れて地震が怖くなくなる、のではなく、「地震が怖くなる」。地震の怖さを知らない読者はここで一度意表を突かれる。そして、地震というのはそれほどまでに怖いものだ、経験すればするほど益々その怖さを思い知るのだ、という事実に気づく。下句の、切実でありながら、どこか飄々とした表現に心を掴まれる。

女友達の夫にさほど興味なし男友達の妻は見てみたし(P184)
 この歌集のテーマの一つに男女の問題がある。時にそれは家制度も巻き込んだ結婚問題として、時にそれはパートナーを求める恋愛問題として、時にそれは性愛の充足の問題として、様々な形で歌に表現されている。掲出歌はそのどれにも絡んでいながら、主体がうっすらと持つ陰の面を炙り出す。自分を「女友達」としてしか遇さない男が、どんな女性を「妻」として選んだのか。その女性と自分の差は何か。友達として知り合うのではなく、「見て」みたい。相手の男性は自分にとっても「友達」でしかないから、真剣な気持ちではなく、ちょっとした興味からだが。そんな自分のかすかな屈折を、対句も使って明確に描き出すところに、この作者の特徴を見る。

理解してくれそうな人にだけ話す適宜編集したかなしみを(P207)
 心を割ってかなしみを話したとしても同意してもらえるとは限らない。分かってもらえず、却って嫌な思いをすることもある。だから理解してくれそうな人にだけ話す。しかも全部話したら、相手にも負担だし、どの部分が相手に残るか分からない。もしかしたらそこは大事じゃない、というところだけが相手の印象に残るかもしれない。だから話す内容は操作しておく。レベル10ぐらいの悲しみはレベル3ぐらいに落として。伝わってほしいことだけを伝える。きっと苦い経験の後で身に付いた処世術なのだろう。そして読者はその背後にある悲しみの大きさに思いを至らせるのだ。

ユーミンのコンサートへ向かうバスの中「遺体安置所だった」という声(P210)
 震災後十年以上の年月が過ぎ、主体の身近にもコンサートなどが開催される日常が戻って来た。今、主体はバスに乗ってユーミンのコンサートに向かっている。楽しいひととき。しかしバスの中で他の乗客が、コンサート会場が震災時に「遺体安置所だった」という話をしているのを耳にする。そんなこと皆知ってる。そしてそれを言わないでいるのだ。どうして口にしてしまうのだろう。バスの乗客たちに一斉に蘇るその時の記憶。土地の持つ記憶は決して消えることはない。しかしそれを持ちながら、生きている者は生きていかなければならないのだ。時には歌を聞き、自分も歌いつつ。

〈追記〉
 この作者の一つの特徴に、ストレートな表現がユーモアを醸し出す、という点がある。しかもそれは、(芭蕉の鵜飼ではないが、)やがて悲しき…という感情に繋がっていくのだ。評は抜きで、その特徴が強く伝わる歌を五首選んだ。
「応募資格は笑顔であいさつできる方!」資格がなくて応募できない(P44)
頑張ってもできないことがあるんだと理解できないあなたの世代(P189)
「ここはまだ藩なんだって思っとけ」友から励ましのメッセージ(P201)
生きづらさにリスロマンティックと名が付いた 可愛いじゃん、リス肩にのせたい(P209)
病みあがりみたいに津波あがりという言葉がわたしの町にはあって(P211)

短歌研究社 2024.8. 定価:本体2000円(税別)


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