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小島ゆかり『はるかなる虹』(短歌研究社)

 第十六歌集。コロナ禍の2020年末から2024年始めまでの486首を収める。自身の老い、母の老い、子の婚姻、孫の成長など変わりゆく家族を足掛かりに、同じく変わりゆく社会を詠う。いつもどこかで続く戦争。同じ言語のはずなのに通じない言葉、そしてそのことのもたらす不安。一首一首が確かな描写力を持つ筆致で描かれ、読者が漠然と持つ不安も、作者の不安とともに顕在化していく。

輪になって坐つただけで次々に鬼になつたねはんかち落とし(P35)
 子供の頃の楽しい遊び。輪になって座ると鬼が自分の後ろにはんかちを落として逃げて行く。気づかずに座っていて、一周回った鬼に身体をタッチされたら次は自分が鬼。ただそれが大人になってからの自分の生の喩だとすると不条理極まりない。鬼はどこから来るのか。何を基準にはんかちを落とされるのか。そして気づかずにいた罰として自分も鬼にならなければならないい。はんかち落としはまだ続いているのだ。

車椅子の母と行くときむかうから亡き父の空(から)の車いす来る(P42)
 母の介護をする主体。主体は先行する歌集で父の介護を詠っていたのだが、父は逝去し、今、空の車いすに乗って主体の元にやってくる。父の車いすと母の車椅子はすれ違うのか。父の車いすはそのまま消えるのか。主体は自分にしか見えない車いすを凝視している。「車椅子」は現実で、「車いす」は幻影。漢字を仮名に開く、小さい工夫でそれが実感される。

スケボーの少年少女躍動すヤバすぎる東京オリンピックに(P65)
 コロナ禍で半ば強引に開かれた東京オリンピック。十代や二十代初めの若い、時には幼く見える選手たちがスケボーで活躍し、危険と紙一重の豪快な技を次々繰り出す姿がテレビで映し出された。主体はそれを「ヤバすぎる」と若者言葉で表現する。当時のテレビのスケボー解説者の言葉がほとんど感嘆詞だけだったことから考えると「ヤバすぎる」は充分伝わる言葉なのだが、主体は違和感を込めて敢えて使っている。この「ヤバすぎる」は上句の選手たちを褒める言葉であると同時に、東京オリンピックを否定的に表現する言葉でもあるのだ。

オンライン会議終はればしんとひとり生身(なまみ)の桃を猛然と食む(P75)
 コロナ禍では多くの会議がオンライン開催となった。それで事足りると言えば事足りるのだが、終わった後が寂しい。対面の会議であれば、終わった後、雑談したり、しなくても人のそばにいたり、ということが出来るが、オンライン会議にはそれは無い。だから生身の桃を食べる。生身の人との繋がりに飢えて、桃に手で触れ、舌で触れながら、猛然と食べるのだ。

逃げ場なきわれをあはれと母言へり担架のうへの手首にぎれば(P104)
 担架に乗せられて救急搬送される母。本当はその母の方が逃げ場がないはずだ。この生活を終らせるには死しかない、「あはれ」と言うべき状況なのだ。しかしそんな追いつめられた状況で母は、付き添うわが子である主体を「あはれ」と言う。自分の世話から逃げられない子。自分の存在が娘を苦しめている。ぎりぎりの人間関係の中でお互いを思いやる感情を、情愛と呼べばいいのだろうか。

滅びゆく途中のからだ春の日は痛む右手に蝶がまつはる(P125)
 母が老い、そのからだが滅びつつあるのを目の当たりにしながら、主体自身も老いを感じ、からだの衰えを実感する。ある春の日は右手が痛み出した。痛みが指に来る様子を「蝶がまつはる」と喩えた。それなら美しいが実際は、ずきずきや、ぴりぴりなどの痛みが走っているのだ。

ギター弾く少年のまへ過ぎんとし過去のどこかへ踏み入るごとし(P160)
 ストリートミュージシャンの少年。路上でギターを弾きながら、投げ銭を待っている。そんな光景は多分何十年も前からあった。主体が若い頃から何度も見たのだろう。少年の前を過ぎる時、ふとその過去のどこかの時間に戻るような気がする。少年の前を過ぎったら、そこは1970年代の世界であったというように。錯覚と分かっていても、歌にリアリティがある。

手術後の母はさびしい鳥の貌 車椅子ごと母を受け取る(P172)
 一連の他の歌から母は水晶体の膜が破れ、手術をしたと分かる。眼の手術だからだろうか、顔つきが変わってしまい、人というより鳥のような相貌になってしまった。もう歩くこともなく車椅子が身体の一部なのだ。そんな母の身体を病院から受け取った。「車椅子ごと」が主体の心の負担感を表している。

マンホールの蓋の重さの冬の月 人は孤独にきまつてゐるさ(P181)
 空に浮かぶ球体である月は、見た目上はマンホールの蓋のような平面に見える。また重さもその程度に見える。実生活では重みがあり、ひと一人では持てないようなマンホールも、月の喩えとしては何とも薄っぺらい。下句の呟きは不変の真理の確認だが、発話体でわざと軽っぽく自分に言い聞かせている。

クリスマスのくじ引きに似て選ばれてしまふ選んでしまうふ一生(P261)
 人の一生はクリスマスのくじ引きと同じ。自分の選択でくじを選んでしまうし、くじの持つ運から選ばれてしまう。くじ引きで引いたかのように運の悪い人生も、いい人生もある。それもくじ引きと同じで、深刻に取ることはないという達観も感じられる。

短歌研究社 2024.7. 定価:3000円(税別)

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