花山多佳子『三本のやまぼふし』(砂子屋書房)
第12歌集。2015年から2020年までの5年間の494首を収める。作者60代後半から70代前半の歌である。ベランダの前にある三本のやまぼうしを始めとする、身の回りの小さな出来事を丁寧に詠った歌が光る。この作者独特のたくまざるユーモアは本歌集でも健在だ。歌集後半はコロナ禍の歌が多くなる。現在はコロナも沈静化しており、振り返る目線で一冊を読んだ。
極端に短くなりしを生命線と思ひをりしが頭脳線なり(P25)
年齢を重ねたせいで、身体の不具合が様々に起こり、そのため手相の生命線が極端に短くなっていた。もう人生も終盤なのだろうか。そんなことを思っていたが、よくよく見れば極端に短くなっていたのは頭脳線だった。それに気付いた時の驚きが詠われている。頭脳線が短いってどういうこと?脳の働きが・・・?思わず笑えてしまう、花山流のたくまざるユーモアの歌だ。
うす暗き部屋にふとんが盛りあがり動けばザムザといふほかはなく(P30)
海外から帰国し、中途採用試験を受けている息子。一首前の歌では養命酒をラッパ飲みしており、どこか荒んだ雰囲気を感じさせる。おそらく採用試験が上手く行かないのだろう。うす暗い部屋で寝ている息子。布団が動けば、カフカ『変身』の主人公グレゴール・ザムザが思い出される。家族の一人が突然、巨大な虫に変身してしまう物語。一つの話がそのまま喩なのだが、それが現代日本の色々なケースに当てはまる。ザムザを想起する主体もやり場の無い気持ちになっている。
目がさめて電車にゐると気づきたり一生(ひとよ)の残り時間に焦る(P39)
電車の中でうたた寝をしていて目が覚めた主体。ここはどこ、と思ってまだ電車の中と気づく。寝てばかりいたら一日が終わってしまう、という焦りなら平凡なのだが、一生が終わってしまう、という焦りが出色だ。年齢を重ねたからの焦りとも思うし、若い読者にもこの気持ちは伝わるだろうとも思う。
パン屋さんの外テーブルで幼子はパン食べたがる雀が来るから(P55)
パンを買った後、家に持って帰って食べるのではなく、パン屋に併設された外テーブルで幼子は食べたがる。その理由はパン屑目当ての雀がやって来るから。子供は間近で雀を見たいのだ。結句八音が意外に肥大して感じられる。文語調で「雀来るゆえ」等としたら七音に収まるのだが、八音で現代語の言い方そのままに詠い終える。子供の可愛らしさをその行動のまま描写することで表そうとする一首なので、言語上の操作をせずに言い流す方が歌の持つ雰囲気を保てるからではないか。
畑にも庭にも寺にも咲く花となりてどこにも似合はざる花(P66)
一首前の歌から木立ダリアと分かる。皇帝ダリアとも言われるこの花は調べてみると大正時代に日本に輸入され、昭和から栽培が本格化したらしいが、体感的には最近の花、平成後期以降によく見かけるような気がする。そんな木立ダリアの美しさを詠った歌は多いが、花山は「どこにも似合はざる」と言う。そう言われてみれば、どこにでも咲く割には確かに日本の寺や畑には似合わない。日本風の花ではない。そういう言われてみれば…的な見方をくれるのも花山の歌の特徴だ。
〈どの曲も背中を押してくれます〉 ザ・ブルーハーツさへ毒を抜かれて(P102 )
政治や社会に対する、反体制の象徴としてロックは在った。しかし、大衆に受け入れられ、売れなければならない、という資本主義の側面も同時に抱え込む。一部の尖った人達だけを相手にしていても商売にならないのだ。そのため、売る側も、尖った部分をリスナーへの励まし、などと言い換えて売る。結果、ブルーハーツのようなバンドも毒を抜かれて、応援ソングみたいに扱われてしまうのだ。場合によっては、バンドの側が攻撃性を抑え、激しさをマイルドに撓めて、多くの人に受け入れやすくすることもあるだろう。
「どの曲も/背中を押して/くれますザ/ブルーハーツさへ/毒を抜かれて」と区切って読んだ。三句の「ザ」が四句へと流れるのが面白い。
意識高く論立つにより評価され怠惰なるゆゑ愛されてゐて(P123)
大学時代に同じ寮で暮らした友人が自殺したことを詠った一連。現在と過去が混じり合い、古い記憶がフラッシュバックする。掲出歌は友の姿を詠った歌。頭脳明晰で切れる人だったのだろう。しかしそれだけで近寄りがたい存在なのではなく、下句のように人間的に愛すべき存在だったことも詠われる。同じ一連の「遠くありし友の日日(にちにち)の苦しみはきれぎれにわれに過りたるのみ」に親しくても結局は分からなかった他人の心と、それをどうにもできなかったという主体の思いが描かれている。
老いるとはどこがつねに痛むこと安らぎは死と思へるまでに(P161)
上句はよくある感慨かもしれない。けれど人間としては、この痛みがいずれは少しましになる、あるいは痛みが無くなると思って、医者に行ったりしながら過ごしているのではないか。下句のように、死なないと安らぎは来ない、という冷静な見方は、自分の身体や生に対してはなかなか持ちにくいものだ。そのあたりの花山の冷静さというか、こだわりの無さはやはり特筆すべきだろう。
あちこちに痛みの出づる齢となりからだの仕組みにやうやく目覚む(P176)
若い時は身体の仕組みに無頓着だ。何らかの痛みが出ても、2,3日したら、あるいは一晩寝たら、治っていることが多いものだ。しかし年齢と共に痛みがあちこちに出る、引かない、という事が多くなってくる。その時になって初めて、身体の仕組みに興味を持って調べ始める。なるほど、ここを酷使するからここが痛むのか、というように。下句が言えそうで言えないと思った。
坂の上にのぼりて見れば街はみなうしろすがたがあるとおもへり(P211)
駅から見て前に広がる姿が街の正面かもしれない。賑やかな商店街がある場合も、ビルが立ち並ぶ場合も、住宅地が広がる場合もあるだろう。しかし街を抜けて坂を登り、小高いところにあがると、街の後ろ姿が見える。それは正面から見た時には分からなかった姿だ。そして主体は「街はみな」と言う。どんな街にも後ろ姿があり、そこには人々の営みが垣間見えているのだろう。
砂子屋書房 2024.7. 定価:本体3000円+税